あまりかたちのわからないもの

別に人生遠回りしてもいいかなっていうブログ

しゃかいじんになりました

 

 

先日このブログでも書いた、【MEZZANINE VOL.2】が日本の自宅に届きました。

待ってました!

 

あの文章がかっこよくなってる、、、

 

記事の内容は直しが入りながらもベースは保たれていてとてもご配慮を感じました。そして記事もさることながら雑誌としての雰囲気も決まっていて洗練されている感じがしました。自分のところしか見れていませんけど。

 

 

改めてこの話をいただいてよかったなと思います。

ありがとうございます。

 

今回はある意味で自分にとって意味のあるものとなりました。っていうのも、本来は普通のものが誰かの手によって加工されてまた違う誰かの前に晒されてそこに付加価値がつくから。

 

例えばツイッターで呟くとして、誰でもそのツイートを見れるとしても、それを何人の人が見るのかなんて高が知れている。

こうやって文章を書いているこのブログなるものでも、見てる人がいる風に書いてるけど結局は強制されているものでもないし自分のペースで書いている。その先には少しの反響だったり反応だったりはあるものの、そこまでだ、そんなもんだ。このブログやツイッターから、お金が生まれるわけでもないし。反響はあるとしてもお金っていうわかりやすいもので表されるといいますか、、

 

このブログ書いたらたぶんはてなにはお金生まれてるんだろうけど?

 

つまりそういう誰もができるような環境、SNSがいい例だけど、記事やツイートはたしかに晒されるんだけどその晒し自体には第三者とかに対してあまり意味がない。自分がもっと影響力のあるツイートをすればいいのだが。

 

一方で今回のはというと、雑誌ってもうそれだけですでに商品価値がひっついているものであり、その前提なしには世に出さないわけであり、ある意味で内容はともかく晒し自体に意味があるのである。そこにコンテンツとしての面白みだったり色だったりが浮き出る。

 

そういう意味で今回のこの機会は自分の中での最初の、必然的に商的価値を持ったものとして世に晒されたと言える。より多くの人にこの雑誌を読んでもらいたいと思うし、なによりも一応書いたので私の記事読んでほしいなぁ。

 

あ、クレジットも気持ちがいい。テキストに自分の名前が入る。これもまたまぎれもない証拠になって世に発信される。

 

 

これって社会人デビューじゃん!

 

 

そう、そういうこと、つまりは今回自分の文章がお金を伴って社会性を持った。

この社会性がたかがネットという世界でのツイッターなど(著名人を除く)の発信とは種類の違うものであるというのは明らかだと思う。ど素人ライターが立派な雑誌に名前と文章を載せていただけるという状況。そしてそれにはお金が絡む将来性があるということ。あ、あとこの時代、紙媒体であることにも意味があるかもしれないね。

 

この露出度とは裏腹に自分の文章に関して自信がまだないから、喜びの反面申し訳なさが少しある。自分が書いたものが世に出ている、これは何事だ、、、という。だからもっともっと書いてもっともっと何か自分以外の人が関わる価値とともに晒されていきたい。こればっかりは経験がものをいいそう?

 

でも検索しているとね、今回のこの雑誌はVOL.2なんだけど、創刊号の発売時のインタビュー記事とかそういうが多くて、今回は!?って、、プロモーションというかそういう違いを感ざるをえない。正直比較したら前回ほどの盛り上がりはない。

 

最後にちらっと見せます。自分のところ。こういうのって全部載せていいものなのかね?って心配だからちらっと載せます。このフィルター感。

 

ああ!!これからも貪欲に頑張ります。

 

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意外と文字読めるので読んでみてください

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次のページからはちゃんと買ってね

 

p.s.ちなみに今回の雑誌の中にアマゾンエフェクトという言葉が出てくるのだが、この言葉知らなかった。