自作背水の陣
わたしはテストが苦手だ。
かれこれ15年間学生をやってきたわけだがテストが苦手だ。
中でも、とりわけTOEFLという英語力を測るテストが苦手なのだ。
理由は簡単。単純ではないからである。
引っ掛け問題が、すごい苦手なのである。また、それ以前に英語力がないこともひとつの理由なのだ。
ただ、TOEFLってアカデミックな留学なるものには必ず付いてくるものであって社会的にも結局のところ点数ドンが一番わかりやすい。
たとえば、今通っている学校のプログラムでは、ボーダーが設定されててそのボーダーの上下では、授業を取れる幅が広がったり、とそれなりの恩恵が受けれる。
そしてボーダーを越えればTOEFL対策の授業を受講しなくてよくなる。つまり選ばれしもの(残されしもの)の呪縛から解放され新しい境地を得ることができる。
ここで思ったりするのは「来タームもTOEFLの授業を続けるのもいいのでは?」とか「TOEFL卒業したら他の難しい授業取らなきゃいけなくなる...」とか「英語やりにきた一環なわけだし無理する必要はない」とか「TOEFLの授業なくなったらTOEFLやらなくなって点数落ちて行きそうだから受け続けるほうがいいのではないか」とか、しょっぱい文字が並ぶ。
つまり筆者の大好きな大好きな「でも英語ってテストだけじゃなくない?」っていうのも「自分のペースでやる〜」っていうのも「そもそもTOEFLって自分にとって今解決することなのかな」も、いわば正当化のための言い訳でしかないわけ。
このメンタルってレベルが高くなればなるほど逆だと思う。英語力の低い人は高いレベルに放り込まれ揉まれることを恐れて行きたがらないかもしれないし、逆に英語がついていけるようになったらアグレッシブになっていくかもしれないし。
そんな間接的な環境でさえ言い訳にしちゃうんだから、わたしはなんて冒されているんだ〜とか、俯瞰しつつも結局のところ英語力が低ければ低いほど妥協をしたくなるのが心理。
こんなのはダメダメ高校生の不良と同じだ。「俺なんてどうせできねーよ。なにやってもだめだからよぉ。」と逃げている。下に逃げたほうが楽で近道なので逃げている。これと同じだ。
義務教育の9年間と何やってるかわからなかった高校3年間、とりあえず単位(正しくは単位が取れてしまう現実の中で)の大学4年間と、生ぬるい土台の上に、奮起して一昨年の12月末から英語を本格的にやり始めたわけだ。「懐かしいな、もう一年か」ってこれをあと何回して死ぬんだろうとふとよぎったりもするのだが、今を生きよう、今を楽しもうっていうテーマは最近になってようやく確固たるものになってきたんじゃないかなって思う。だからこそ今自分を取り巻くものから逃げてはいけないのであろう。
当然、過去を遡れば、自分なりに大きな選択の際も「今しかできないこと」を考えて決めてきたのだけど、そこから少し広い視野で、だけどがむしゃらに「ひとまず今やってみよう」に変わりつつあるっていうことである。
そう考えると、今やれることってたくさんある。でも同時に今やりたいこともたくさん出てきてしまう。
そのどっちかを取るっていう選択と同時並行する選択。欲張らない程度に、手が回る程度に両方やりたいのが今の自分である。
自分の心を軽くするための言葉はたくさん持ってる。だてに今までポジティブやってきたわけじゃない。でもそれって、それと同じくらい自分を頑張らせる道具も持ってるってことだからそれはそれでいいんだけどね。
その両立は大変なのは分かってるし、英語難しいけど、今やるべきことにも向き合う時が来たってことなんだなぁって思う。
ひとまず、あと1ヶ月ちょっと。1年ぶりのガチTOEFL勉強(学校の勉強と並行)に夢中になってみようかなって決めた。
こういう風に自分を追い込まないとすぐ逃げ道作るから文字に起こして宣言ということで、頑張れじぶん!