あまりかたちのわからないもの

別に人生遠回りしてもいいかなっていうブログ

サービスとカネ

ご無沙汰しています

バタバタしている帰国後に「1ヶ月間更新がありません」とはてなブログからメールが送られて来たので書きましょう。

そう決めたら、しっかりと書くことがあった。

 

お金と仕事

最近ちらほら、ちょっとしたことかもしれないが、頼まれた仕事にお金が生まれるということがあり、本当に感謝である。

というのは、自分の提供するものにお金を出してくれる人がいることに喜びを感じるし、もっとその人のことも喜ばせたいと同時に思うからだ。

自分が生み出したことで誰かを幸せにできるのなら、こんなに幸せなことはないくらいに思う。

美しいことを言うようだが、本当にそう思う。そうじゃないお金のもらい方は逆に気が引けるくらいかもしれない。

それだけでなく、まだ自分の技術や生産力には自信がないとしても「お金」という存在が絡むだけで、「その仕事に、自分のセンスにもしかしたら自信もってもいいのかも」という気にもさせてくれる。

 

ただ、お金が持つパワーを伴ってそのサービスに値段がつくという作業自体は、今まで散々、ものを買ったり利用して来たりしているのだけれど、実際に自分が生み出したものを介していないと、どうにもピンとこないというのは大事なポイントかもしれない。

 

それで、一通り生む作業、与える作業、お金をいただく作業を経て思うのが、何かを自分が生むとき、その影響がどのように出るのかに重視する必要があるということ。

 

つまりはお金じゃないということ。

それをしたことで誰がハッピーになれて、どれくらいその人にとって重要度が高いものなのかということ。

 

「お金じゃない」というのは、「お金」をどういう存在としてみているかによるが、ここでいう「お金」は数字的な価値のことを言う。

 

だから、ある仕事に対してお金が発生するのだとしたら、その仕事をする時にお金とその仕事の関係をよく分析して自分のスタンスを考えないといけないと思う。

 

個人的には、たぶん多くの作り手は「そのサービスの対価としてお金を与えられる価値がある」ものを作りたいし、だからこそ、もしお金をもらうときは、その提供されたサービスによってどれほどの豊かさや幸せが支払いをする人にもたらされたか、それを基準に値段を決めて欲しいと素直に思う。

 

しかしながらそれと同時に、これは純粋に個人的にも自分のサービスについて興味があることなのだが、お金という数字的価値で自分の技術の良し悪し、つまりそのサービスの価値を知れる。お金が、そのサービスがどれだけ人に喜ばれるものなのかを知る判断材料になるというのも要素としてはある。

 

 

実際、去年の今頃に一つ仕事を頼まれたことがあったことを思い返すと、今、あのときははっきりとお金が目当てだったと感じる。

 

言い換えれば、その金額が欲しいからその仕事をやるという気持ちが少なくともあった。相手はもちろん知り合いの人だったけれど、仕事をする過程で正直その金額が持つパワーに多少魅せられて、純粋な感情ではなかった。

 

そのときは一応納得してもらえるようなものを作れたのだけれど、どこか半信半疑で「本当に使ってもらえるのか」とか「この仕事でその金額をもらっていいのか」とか、何かと不安を感じていた。

 

それはきっと、その仕事が、もたらす価値について知らず、その作業が「仕事」を超えられなかったからだと思う。

 

それからも、実際にものを作って誰かを提供するとき、このような感覚が、続いていた。いまいち自分の質に自信を持てないというか、プロじゃないしとか言う逃げ道だったのかもしれない。

「とりあえず仕事はしたけど自信がない」とか「本当に自分のセンスは必要とされているものなのか」とか「完全に喜んでもらえるとは期待してない」とかいまいち腑に落ちない中でやっていたのは否めない。ある意味での「僕でよければ、、、」状態だった。

 

このような感覚は間違いなくネガティブだし、このメンタルでは才能があったとしてもいいものは生まれない。

 

お金とネガティブ

そしてだいたい、そういうメンタルには「お金」が絡んでいる。

 

たとえば、お金に対する考え方やその時の状況など「お金がない」だったり「うまい話だ」とか、そういうものが少なくともあると、自動的に100の仕事はできなくなると考える。どこかで、仕事をすればもらえるものはもらえると思って自分のゴールを設定してしまったり、お金のためにやっているようでどうにも自分でも100の仕事をしたと言い切ることが難しい。

 

このように、お金が事前に提示されていたりして「お金」に関してフラットに考えることができない限りは、提示されたお金に対しての仕事量とか割を考えてしまいがちになる。まあしかし言ってしまえば自然なことなのかもしれない。より仕事らしく仕事をするとね。

 

でもそうじゃない、と最近読んだ本が教えてくれた。

 

お金はサービスの対価

それからモットーにしているのが「お金とはそのサービスの対価」という考え方だ。

 

お金とは、払われるべきものに払われるものであり、使われるべき時に使われ、使うべきものや人に使うのである。それは、ある商品やサービスが、その金額を払うだけ価値のあるものかどうかという基準だ。ある人がお金を払うに値しないと考えるサービスに、ある人はお金を払う。逆に、ある人がお金を払わないサービスに、お金を払う人もいる。

 

それぞれの人間の中にあるそのお金を払う基準や意識で現在の経済は回っているのだけれど、自分が本当の意味でお金と付き合うとなると、そこらへんの価値観は自分なりに磨いていかないといけない。

そうすると、買うべきものと今必要ないものが自ずと見えてくる。これは基本のようだけれど、普段はいろんなストレスや欲にまみれて、ものの本質が見えにくい。しかし価値観が磨かれていると、「買うべきもの」への判断力が養われいい循環を生む経済活動ができる。

 

 

それを踏まえて、話を戻す。

それからまた、最近お金が発生するある作業を頼まれ、お金の話になったのだが、不思議なことに、そのときはいくらとるとかは置いといて、その人が自分の仕事でどれだけ満足したかをその人なりのお金の価値観で表現してくれればいいと考えるようになった。本って素晴らしい。いい本に出会った。

 

そうすると、面白いことに、まず頼まれた時点でお金が絡んでいないことから、自分のサービスを本質的に認めてくれていると感じれるし、よりいいものを作りたいから作る過程でも妥協は起こらない。なぜなら、その依頼に応えられるようなものを提供してさらに喜ばせたいし役に立ちたいと思うからである。その結果としてついてくるのが「感謝」という名の「お金」であって、それは「仕事量の値段」ではなく「仕事内容の価値」としての「お金」である。

 

この考え方はシンプルだ。シンプルなのだけれど、とは言っても現状お金がないとか、なかなかお金に執着していたりという人にはなかなか理解できないことかもしれない。

 

しかし、そうだとしても、自分を高めるためには自分の内面を騙して、実践してみるということも大切だ。

 

金がなくたって、そうした考え方を採用してみて、人の役に立ちたいとか、自分のできることで人が喜んだらどれだけ幸せかということを考えてみる。それで、今はお金がないかもしれないけど、その中でできることは何かを考えて行動してみる。多少は大変な仕事をしなくてはいけない期間もあるかもしれないが、根本は、その状況を抜け出すために努力を惜しまないようにしていけたらいい。そうすることで、いいお金が舞い込んでくるし、自分の意識を高めることで、いい仕事を提供することができる。

 

 

そのような、心で生きていきたい。

この記事は自分自身に対する戒めである。