あまりかたちのわからないもの

別に人生遠回りしてもいいかなっていうブログ

それがそれであるために

 

アメリカに来てから、馬鹿の一つ覚えみたいにパスタを食べている。

理由は簡単で「美味い、速い、安い」この三拍子である。特に最近太ってきたのは否めないが、帰国前に痩せようと努力しようかなと思っている。おなかがやばい。、

 

今回の記事は、くくるという作業いわゆるステレオタイプな考え方と思われるかもしれないが、個人的な経験に基づく体感を正直に書こうと思う。

結局比較をしたら傾向や志向を見出す手段は「多くのーー」とか「ーー傾向がある」などが主な表現になるからである。数字的なエビデンスはないのでご了承ください。

 

 

「本質」と「目的」

さて、冒頭パスタの話をしたが「安くて速い(早い、以下はやい)」といえば、ファストフードであろう。そしてまさにファストフードの聖地アメリカにいるわけだが、やはり有名なマクドナルドだけでなく、多くのファストフード店が存在していて日本では聞かない名前も山ほどある。中にはその味が好きという人もいるが、だいたい人々はそのはやさと安さを求め来店するんだろう。

 

その証拠に、日本でも増えつつあるスターバックスのドライブスルーなど、何かにつけてドライブスルーなのである。これは「楽さ」という需要に応えている他に、アメリカの人々は待つことがあまり好きでないということもあると言えよう。

 

このような、人々の「待ちたくなさ」で言うと、例えば、これは自分が試合観戦に行った時の話だが、サッカーの試合やバスケットボールの試合で、試合開始の30分前から会場入りしまだかまだかとワクワクを味わう観客よりも10〜5分前に来てだいたい試合開始ちょうどに合わせて来る観客の方が数的には多いと感じた。

また、信号は車さえいなければ赤でも渡るし、駅の電光掲示板で電車待ち10分という表示を見ると、ぶつぶつ言いながら自分で歩き出す(ポートランドは歩ける街である)。

つまり、待ちたくないというのが根底にはあるんだろうと思える。

 

さてファストフードの話に戻すと、こうした人々は、食事そのもの質というよりも食事の取り方の質を求めているように思える。もちろん「ファストフードなんて行かないわよ」という人も一定数いることは忘れないでいただきたいが、健康が重要視されてきている今でさえこのファストフードが続いているということに注目したい。

 

つまり、オーガニック食品のみ食べる人や、そうした食事を取る努力をしている人、いわゆる食事に気を遣っている人とはまた違った視点で、食事を「行為」として捉える人がいるということだ。

 

一般的に後者は「食べる」という行為ができればいいのであって「食材の質」はこだわる必要がないと考えているのだ。

 

これは、ドライブスルーをはじめとするファストフードの流れなどにも関連している。いいものを食べたかったらマクドナルドのようなファストフード店にはもちろん行かない。しかし、質は求めずその「食べる」という行為を満たすことができるものならよしという考えもある。その代表例が、安いスーパーマーケットの内容量が多いにもかかわらず値段が安い冷凍手羽先を買うだとか、安い卵を選ぶだとかである。

 

筆者はオーガニックのものを食べようと努力しているので、そういった感覚はわからないが、先述の例で言えば、別にお金に困っているわけでもない人が、そこまでして逆にこだわらないのは、やはりそういった理由が関係しているのではないかと思う。もちろんアメリカにいる人だけでなく、日本にいる人でもそういう感覚や価値観の人は一定数いるとは思うが、やはりこちらは顕著である、そういった意味で取り上げている。

 

で、何が言いたいかというと、彼らは「実質的な意味や質」よりも「その目的を満たすこと」に重きを置いているということだ。

 

もうひとつ例をあげる。

 

こっちに来てからよく目にするのが、バッグや服が汚いということ。言い換えれば、それらを汚さない努力をしていない。逆に言えば、そういった衣類や日用品は消耗品であり、汚れて当たり前という考えかもしれない。

電車内や路上、教室など、いろいろなところでバッグを地面に置く。そして授業中でさえ足を伸ばして机の上に置いたり、別の椅子の上に置いたりして楽な姿勢をとる。最初見たときはすごい違和感を感じたのを覚えている。きっとその結果普段使いのバッグはみるみるうちに汚れていくが、しかしその機能性には何の影響もないため、特段気にしないということなんだろう。

 

この例こそ今回書こうと思った出来事なのだが、どうしてそんなに汚れたバッグを使うんだろうと考えたら、こういうことなのかなあというのが今回の記事である。

 

これも先ほどの「食べる」例と同様「服は着るものであって、綺麗さを保つ必要はそこまでない」つまり「『着る』という行為を満たしていれば、その服の質や価値はあまり気にしない」とは言えないだろうか。

もう少し砕いていうと「ブランド志向ではない」とか「興味がない」とかだろうか。

 

肌を覆って寒さをしのぐことができる衣服や、ものを入れて運ぶことができるバッグのその機能性が損なわれなければ、そのバッグのブランドや使っていく中での汚れなどの綺麗さは気にしないこの例と、食べ物の良し悪しをあまり気にしないためにただ空腹を満たすファストフードで十分だと考えることは、マクドナルドをブランドだと考えなければほど同じものだと考えていいはずだ。

 

ついでに、机の上に足を伸ばしたり、机に座って椅子に足を置いたりする行為自体は、誰もそれが失礼にあたるなんてことは思わず「そこに椅子があるから足を置く、そこに机があるから座る」と言わんばかりの態度で行われているのである。電車内で向かいの椅子の上に足を伸ばす人も、他に座りたい人が来ればそれを止める。その必要に迫られない限りは見た目よりも快適さや、その椅子を椅子であることを、よく言えば十二分に生かすことを重視しているとも言える。

 

ただ、個人的には数秒前まで足が伸ばされていたその椅子には座りたくない。しかしそんな人でも、別の場面で立場が逆ならきっと足を伸ばしている。現に、人々は電車内で椅子に座るときに、座る前に自らの手で椅子をはたいたりしてその椅子が汚れていないかを確認してから座る。

 

それって、人々がそれをしている(足を伸ばしているだけでなく、綺麗に使わない)ことを認知していなきゃやらないし、それは同時に自分もやり得ることであるからだ。あるいはその経験があるから、はたくという行為をするのである。その点でお互い様な関係は生まれているのだが、、、。日本人の自分からすると、ここアメリカはそういった行為が黙認されるような、なんて気楽に生きれる国なんだ、とかたまに思うのだが、やはりそれはマイナスの方向で均衡が保たれているとも思う。日本は逆で、よくアメリカ人が「日本の電車内はリスペクトがあって好き」と言うようにポジティブな方向でその均衡が保たれている。つまり、電車の例で言えば「みんなやっているからやる」アメリカの例と対照に「誰もやらないからやらない」のが日本である。

 

話を戻すと、こういった物質的な機能にフォーカスしてものを使う人々が多いことは本当に感じる。日本では割と、そのものの質だったりを重視する中でもちろん機能性も重視もするし、いろんな条件を吟味してデメリットとメリットの総合点として考えるやり方が多いのかもと感じる。一方でアメリカにいる前述した人々は、あるものを、その目的を果たす手段やツールとしてのものでしかないと考えていると感じざるをえない。

 

それはきっと、何となく自分で捉えている言い方で言えば「物質的なアメリカと精神的な日本」という二局がなんとなく、存在しているのかなあと思う。

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意味はありません!