あまりかたちのわからないもの

別に人生遠回りしてもいいかなっていうブログ

知ってみて考えてみる

昔 こんなことがあった。

あんまり知らないって言いたくない。と率直に思う。だから考えてみる。

 

 

 

オウム死刑執行、その時日本では

先日、坂本弁護士一家殺害事件や松本サリン事件、地下鉄サリン事件を起こし、彼らの独特の思想、信条の元に多くの人の命を無差別に奪い去ったオウム真理教の元教祖である麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚含め、7人のオウム真理教教団幹部らの死刑が執り行われたという。

 

www3.nhk.or.jp

 

 

この死刑執行についてはさまざまな意見がある。以下順不同にツイッターでの意見を紹介していく。

 

 

 

 

 

 

 

ご覧の通り、死刑執行反対と支持、意見は二つに分かれる。

 

今回の執行はいろいろな問題を含んでいる。

死刑制度そのものに関連して死刑制度のあり方を考える機会でもあったし、この犯罪組織と化した教団のような、新たな勢力の再発防止のための真相解明のチャンスを消したとも言うるし、死刑をリアルタイムで報道する感覚についても様々な意見があったし、また、そのほぼ同日に新人議員との懇談会を開き楽しく盛り上がった総理大臣を含む与党の議員たちもいた。

 

 

 

たしかに、このツイートをする必要性がないことは誰がどう見たって明白ではいないか。ただでさえ、その翌日に死刑が執行されることがなかろうと、西日本各地で相次ぐ豪雨ならびに洪水被害、京都府は先ほど災害派遣申請を発表し、まさに日本で、日本の国民が危機に瀕している事態が起こっている。その前には大阪の大地震も発生し、未だ二次被害など予断を許さない状況である。

 

総理大臣もその都度一応、対応と言えるかわからないが、最低限の措置は行ってきてはいる。翌日にはコメントを発表し、対策室も設置はした。

しかし、この写真の総理大臣は楽しそうである。彼も人間だから楽しみがないと壊れてしまうのはわかるが、このようなあからさまな楽しい出来事の様子を、たった今楽しくない人が、たった今政府の助けが必要な人が見るわけである。インターネットとはそういうものである。

 

 

死刑囚写真に次々「執行」シール TV演出に疑問の声も:朝日新聞デジタル

 

いろんなことがいろんな角度から問題提起されているこの状況自体は、関心の度合いという面では、多くの人に考えさせるきっかけにはなっていると感じる。特に若い世代では再現ドラマや再現ドキュメンタリーでもテレビでやりさえしなければ、こういった情報に自ら触れに行くことは、国会中継を観る数よりも少ないのではなかろうか。いや、もはやないに等しいのではなかろうか。個人的にはテレビは観ないが、この手の事件のドキュメンタリーなどを観ることは好きなのだが、おそらく同世代でテレビをよく観る人でさえ、この種のものに触れようとしている人は少ないと思う。

そういった意味では、きっと、若い世代のこの事件を知らない人に届いた出来事ではあったのではないかとは思う。

 

しかしながら、映像を探しても出てこないのだが、このような記事ができあがるくらいその放送はひどかったのだろう。まるで、記事中にもあるように、選挙速報のように執行のラベルを顔写真に貼っていくような感じであろう。

犯罪を犯したもののいまだ人権は保証されている。執行された事実を報道することだけに留めて厳かに謹んで報道できないものか。これはイベントなんかじゃない。

 

そして、死刑制度そのもものあり方にも疑問の声はある。

 

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このニュースにあるように、多くの国が日本の死刑制度の是非に対し、考えを改めるよう提案をしているのも現状である。実は諸外国特に先進国の中で実質素直に死刑制度を導入している国は日本だけである。

 

2017年12月現在、142か国が法律上あるいは10年以上死刑を執行していない事実上の廃止国であり、うち106か国が全ての犯罪について死刑を廃止している。OECD加盟国のうち、死刑を存置しているのは、日本・韓国・米国の3か国だけであるが、韓国は10年以上死刑執行をしていない事実上の死刑廃止国であり、米国は2017年10月時点で19州が死刑を廃止し、4州が死刑執行モラトリアム(停止)を宣言している。したがって、死刑を国家として統一して執行しているのは、OECD加盟国のうちでは日本だけという状況にある。

日本弁護士連合会│Japan Federation of Bar Associations:死刑執行に強く抗議し、直ちに死刑執行を停止し、2020年までに死刑制度の廃止を目指すことを求める会長声明

 

そんな中で、国内におけるこの一連の死刑執行に対する態度は、改めて死刑制度のあり方を考える上で、よく議論され多くの人に考えてもらうきっかけになったのではないだろうか。

 

 

 

問題はステータスではない

信者による猛烈な崇拝がたびたび社会的に話題になり、やがて信者とその家族の間でのトラブルが相次ぎ、看過できない組織へと発展した。そして世紀のテロ事件として日本全国を震撼させた一連のサリン事件で、オウム真理教という組織が社会的悪として決定打となったのだった。

 

ヨガサークルとして発足したこの教団には様々なバックグラウンドを持った信者が集まった。そこにはいわゆる高学歴とされる人たちも多く、のちの凶悪犯罪を引き起こしたオウムの頭脳の核として、つまり専門的な知識を持った信者として各方面で役割を担っていた。そして事件後からなぜそんな人々でさえ教団にのめりこんでしまったのかという議論はされてきた。

 

それにしても、高学歴の人がなぜ入信していったのかという議論がしばしばある。ある説では、高学歴ゆえに様々な実験や研究で詰まった果てに目にした、超科学的な麻原のペテンに虜になってしまったからとか言われている。

 

たしかに理解できなくもない。人間、無気力であり、あるいは何か手につかない時、ふと普段なら縁のないものや、普段なら手に取らないようなものに興味がわくものであろう。

例えば、ある人はテレビはおろかお笑いというものに全く興味がないのだが、ある日友達から面白いからと言われ渡されたお笑いのDVDやビデオをふと、観てみるかという気になる。この類の心理的な現象は多くの人が同意できるのではないだろうか。

 

あるいは、両親との関係、家族とのつながりも一因であるかもしれない。ある死刑囚の母親は当初は否定的だったものの、やがて自身も入信している。こういった、その人の人間関係を武器に次々とネズミ講のように広がっていくネットワークも、宗教団体における典型的な信者獲得の方法であろう。

 

しかしこういった要素も頷くことはできるのだが、個人的には、学歴や社会的な立場は関係ないと思っている。この手のものは、自分を否定したり自分が自分の信じるものを失った時、自分を保てなくなった時に、寄り添ってくれる拠り所、自分を魅了し生きる糧を与えてくれた何かを欲している自分に気づき、それを自分の信ずるものとして感謝を始めるところにあるのではないかと思う。きっとこういう議論はすでにあるものと思うが、こう思う。つまり、完熟した人間がなんのかはわからないが、いわゆる人間としての未熟さやスキがそうさせているのではないかと思うのだ。

 

そして一番は、ここに載っている複数の教団幹部の入信のきっかけを見ると「麻原の著書を読んだこと」とあるのだが「なぜその本に出会ったのか」が知りたいというところが本音である。言い換えれば、なぜ高学歴の人が入信したのかより、なぜその人がその本を読むきっかけを得たのか、どのようにしてその本に出会ったのかを知る方が地味だが、再発防止への簡単で近い方法ではないかと思う。

 

また、ある人は、裁判を行うにつれ、麻原への信仰心も薄まる者もいたが時すでに遅し。マインドコントロールの怖さと自己の未熟さを哀れむに尽きるのだろう。そして獄中、書き連ねた反省の言葉は、来世でのよき転生を望んでのことだろうか。はたまた、被害者や遺族へ向けた本当の言葉であろうか。本人にしかわからない。たとえその人が死んだ後だって、誰かの叫びは続く。ある人がなにかを思ったところで過去は変わらない。人間は反省する生き物ではあるが、その反省から得たものを次に活かすことはすべての人間ができることではない。

 

 

 

だれでも考えることは自由

こうやって自分も若い世代だけど、完全な知識ではないにせよ、むしろ初心者に近い知識にしろ、思うこと考えていることをここにひとつ記している。そしてみなきっとそれぞれ思うことがあるのではないかな。たとえそれを記して発信した時に、誰かが批判的に反応したとしても、同意してくれる人がいたとしても、それがさらなる議論の発展と自分の思考の深みにつながるのは確実で、また同時に自分で考えることの必要性を再確認するきっかけになるはずである。知識が足りないことなんて、批判的な人が頼んでないのに情報を教えてくれたり、そこからまた自分で調べていくことでどうにでもなる。筆者だって、記事を書く時に、もっと知識を揃えた上でこれ書いた方がいいのかなあなんて常に思っている。

 

自分が直接関わらなかったことでも、昔起こったこと、特に今も何かしらでその破片がどこかに存在し、誰かを傷つけたりまたそこから破片が飛び散ったり。何が起こるかわからない今を、何かが起こった過去を、なんでもいいからまずは自分なりに考えてみることは、未来に生まれる何かの破片を取り除く糧になるんじゃないかなと思う。