あまりかたちのわからないもの

別に人生遠回りしてもいいかなっていうブログ

すでにあるものとあたらしいもの

 

先日立教大で行われたポートランドについての集会に参加した。

 

ポートランド州立大学でシニアフェローとして活躍をする柳澤恭行先生を招いて、ポートランドのまちづくりのキーワードを紐解いていくという内容だった。

ポートランドといえば住民参加型のまちづくりで有名で「生き生きした街」というイメージがあるかもしれない。その証拠に街全体で面白いイベントが毎日のように模様されてはいるが。

 

しかし、よくよく見てみると、ポートランド発祥というイベントや文化は意外と少なかったりするように思える。

 

紹介の中で「Portland Soapbox Derby」( https://www.soapboxracer.com ) というイベントがあった。

手作りの台車に乗って坂の上からビューンと山の上から降りるイベントだ。

 

へんてこな車やかわいい車など個性が強い車が降りていくこのイベントだがポートランド発祥ではないらしい。

 

ほかにも、いまポートランドではシェア電動スクーターが上陸し、街中を走っている。

これも実は西海岸全体ではすでに存在していて決してポートランド発祥のものではない。

 

しかし地元の人はまるで自分たちの文化であるかのように楽しみ、はっちゃける。

ここにポートランドマインドがあると思う。

 

やりたいからやる

ポートランドでは行政がイベントを催すことはあまりない。主催者はいつも市民だ。街自体はイベントの開催は奨励するが、運営や管理は行わない。せめて交通規制くらいだ。

それでも毎日どれに行こうか選べないほどのイベントが行われている。(個人的なものもあるが)

 

ここに住民参加の活発さを見ることができる。イベントの大小かかわらず「やってみたいから」という動機でイベントが企画できる。そこにはきちんと運営面での成功が求められる。

ちょっとしたイベントでも、それが成功すると企画のハードルが下がり、だれでも気軽に発案が可能になる。これは想像に難しくない。

 

だからポートランドには「どこかでやってたイベントをポートランドにも持ってきたい」とか「自分がただやってみたいから」とかそういう理由で行われているイベントが多い。

 

それが側から見ると「なにやってんの笑笑」というクオリティだったり、飛び抜けて馬鹿なことだったりする。しかし本人たちは真剣にその馬鹿をやっているのだ。それがポートランドという見え方なんだろう。

 

その日はそれで終了し、決してポートランドはオリジナリティは高くないんだなと思ったくらいだったのだが、そのあと2日間くらいで思ったことがある。

 

「誰もやってないことをやるのも大事だけれど、すでにあるものをさらに広めて価値を高めていくこともまた大切である」

 

こういうことは環境問題とか社会をよりよくする活動に対してもっとこういう、「誰かがやってるやらないにかかわらず、自分がいいと思ったことをやる」という考え方が広がればこの社会はもっと良くなるんじゃないかなと感じた。

 

ビジネスだと、これは同じものが増えるだけで商業的価値が見出しづらいのかもしれないが、そうじゃなくて、すでにあるものをさらに維持発展させていくことにも価値があると思う。

 

そんなことをポートランドのまちづくりから学んだ日であった。

言葉と集団

 

ツイッターで「本書きたい」を検索してみる。

 

 

すると、検索にはアニメ系のアカウントやゲームの系のアカウントのツイートが目立ち、中身も曖昧でただの欲求以上は何もない

 

次に「本出版したい」と検索をかける。

 

すると、ビジネスだったり、自己啓発を匂わせるタイトルだったり、内容をイメージするのが容易で、よりリアリティのある願望をうかがわせるツイートが多い。

 

これは「出版」という言葉が持つリテラシーのレベルであるということを示す(かもしれない)。

どういうことかと言うと、明らかに「書く」より「出版」のほうが国語的にはレベルが高い。その証拠に「出版」は小学校1年生は習わないだろう。

 つまり、その言葉を使っているだけでレベルの下限を自ずと決めているのである。

 

こうしたことは、高校入学の時に経験した。某有名大の附属高校に入った時、周りの友達が、中学校までの友人との普通の会話では使わないような単語や表現を普通に使っていたのだ。

地方公立学校出身には衝撃のリテラシーの高さだったのをよく覚えている。

 

悪いことは言いたくないが、実際の問題として、集団によって使う言語レベルには差がある。公立の小学校中学校など特に田舎で育った環境でのリテラシーのレベルと、受験を見据えた中でハイレベルな競争や勉強を重ねてきた人とでは、やはり悲しくも事実として相当レベルが違う。

 

また、会話の中でも、使う単語でリテラシーの違いを見せつけ相手を牽制することができる

例えば、意識高い系がカタカナの専門用語ばっかり使って何をおっしゃっているのかさっぱりわからないという経験はないだろうか?

コンセンサスとかインセンティブとか、コンバージョンとかなんかとにかくビジネスシーンで多く使われるマーケティング用語とかは代表的だ。

 

要翻訳でツッコミ入れたくなるような会話はやってらんない。日本語を話せ、と。

 

彼らからしたら日常的に使っているんだろうが、その言葉、少なくとも日常会話レベルの日本語ではない。それを上からワーワー押し付けて話をしてくるのはもう、自分が優位にある、頭がいいというアピールに他ならない確信犯なのだ。

 

つまり専門性が高いことを噛み砕かずにそのまま振りかざしてくるタイプには要注意である。特に意識高いコンサル(偏見)。

 

きっと、言葉のチョイスには相手を思いやる気持ちも含まれると言えよう。

 

 

言葉というのはその人が育ってきた環境に依存する

「何を学んできたか」にフォーカスすれば、その人の専門分野では専門用語が口から出てくるだろうし、得意でない領域では一般的な語彙力になる。

「育った環境」にフォーカスすれば、昔、子どもながら言葉遣いが悪い友人がいたことはないだろうか?

 

そのケースに多いのは「親の口が悪い」ということだ。子は親を見て育つように使う言葉も口調も親を真似して育っていくのは疑いの余地はないはずだ。

 

「おい」とか「おまえ」などの汚い言葉を小学生低学年くらいの年齢の子供が使っていたら、それはきっと家でも親が使っていたりすることが多い。

 

反対に、家柄の良い家庭に育った子供は言葉遣いには気をつけろと言われていれば、その結果傾向として汚い言葉を使わない人育つことが多いように思う。

 

そういう意味では、ある人が所属してきた教育機関のレベルは、もしかしたらそういったリテラシーを上げるための助けになるのかもしれないとも言える。

また、付き合ってきたグループは仲のいい友人など、より小さい集団において使われる言葉やお馴染みの表現は、やがてその人に染み付き、それがその人のリテラシーを作る。

 

そうしたことを考えてツイッターエゴサをすると意外と面白いなと思ったのだった。

 

ちゃんちゃん

 

 

大麻草の精神性

 

今回は日本人と大麻草の精神性について検証してみます。そのほかにも「戦争と日本」に注目していきたいと思います。

 

みなさん、第二次世界大戦に日本が負けたことはご存知ですか?ですよね?

敗戦国として経済的発展はしつつも国際的な地位を築けずに現代を生きています。

 

戦争後の立て直しで言えば、良くも悪くもGHQ(連合国軍総司令官総司令部)の介入を避けることができなかった過去があります。その介入によってもたらされたものはとても大きく前後の貧しい日本にとってはとても嬉しい支援だったという話を聞きます。

一方で経済的に発展し経済先進国としてその地位を確立しつつある日本ですがまだまだ解決されるべき課題がたくさんあると言えます。

そこには、日本は自立したくてもできないという制度的な制約もあります。

具体的にはこの記事で述べますがいくつかの象徴的な事柄をご紹介します。

 

憲法

天皇と国民

大麻と日本と石油

 

憲法

これは有名な話です。最近では安倍政権によって憲法9条の改正が掲げられ議論に発展しているため比較的聞いたことがあるかもしれません。

 

日本国憲法は1947年3月に施行され、敗戦国であり唯一の被爆国として、それ以降日本国は軍国主義を捨て、率先して世界平和に寄与していくという使命を与えられました。

 

天皇と国民の関係

アメリカ主導で作られた日本国憲法は戦前までの天皇のあり方や権限などを再考したものとなりました。

天皇は一定の権限を失ったものの、天皇制自体は保たれました。それは天皇を心の支えとしていた戦前までの日本国民を考慮したからであり、天皇制自体を消去することは当時の日本にとっては大きな混乱を招くと考えられたからです。

 

贅沢は敵だ

「欲しがりません勝つまでは」

「挙國一致」

「一億國民総武装

「玉砕」

「産めよ殖せよ国のため」

 

どこかで聞いたことあるかなスローガン、これらを従順に遂行することができたのは何故でしょうか?

 

今でも身の毛もよだつような、考えられないような国家思想です。

「戦争は国民が命をかけて戦うものだ」と言うが、これは誰のためになのかを考えればもう答えは明るいでしょう。

 お国のために、お国のために、それはつまり天皇陛下に捧げる勝利でした。

 

「死ぬなら美しく散れ」

「体を投げ打ってでも相手に一撃を与えよ」

「潔く最期を迎えろ」

 

このような思想を支えていたのは当時の天皇陛下の存在が相当大きかったことが伺えます。

このように「天皇」と「国民」の関係を懸念したGHQは、日本政府の役人の粘りもあったものの、天皇制を維持しながら、実権を持たない象徴的な存在と定めたのでした。

 

大麻と日本と石油

そしてもう1つ、天皇と国民の精神性のほかにも注目すべき要素があります。それが大麻草です。これも有名な話ですが、、、

 

戦前までは大麻草が生活の一部として存在していたことをご存知ですか?

 

生活の一部とはつまり合法であった(合法っていう概念すらないくらい身近にあった)、薬として流通していたのです。そこらへんには自生していたし、衣類はもちろん、食の分野でも活躍していた。

また薬としては抗精神薬の働きがあり、アレルギーやぜんそく、うつなどに効く薬として一般的に流通していました。

 

ところがどっこい、敗戦後GHQによって大麻取締法が作られ、それまで生活の一部であった大麻草の存在が否定され、人々の生活から遠ざかっていってしまったのです。

 

これは理由としては2つあります。

 

1つ目はこの記事で最も言いたいことの1つなのですが、天皇との関係でも存在した、精神的なつながりです。

今でも伊勢神宮の注連縄や皇太子が天皇になるときの儀式「大嘗祭」で着用する麁服(あらたえ)という衣類の原料、お札など神事で使われており、いまだに需要があるのです。

 

これからもわかるように大麻という素材が神が絡むような行事だったり、天皇だったり、信仰の一部として存在していたのです。

 

したがって、GHQはそれらを考慮し、天皇同様日本人の心と大麻のつながりを断ち切り、二度と戦争を起こさないようなマインドにさせる意図があったと言われています。

 

そしてもう1つの理由は、石油がらみの話です。都市伝説ぽくなります、、、

単刀直入にアメリカが日本を石油のマーケットにしたかったという思惑です。

当時石油のマーケットは未開拓で、しかしながらアメリカがその分野を牛耳っていました。具体的にはロックフェラー系のエクソンモービルが挙げられます。ヨーロッパ発の財閥としてはロスチャイルド系のシェルやBPが挙げられ、いずれも植民地を経て産油国を傘下に入れていたため世界の石油をコントロールするのは容易だったのです。

 

そうして、敗戦国として石油市場に見出された日本はアメリカの介入のもと、多くの対アメリカ体制を構築していくのです。

 ここまで書いてきて、いずれにせよ戦後の日本がアメリカにならずに日本国として存在できただけましなんじゃないかと思います、、、

でもアメリカになっていたらと考えても面白いとも思いますが!

 

 

いかがでしょうか。

日本の敗戦は現在にも尾を引く決して小さくはない出来事でした。個人的には戦争を仕掛けて負けた愚行の産物としか思えませんが、よく観察をすればそれを受け止めて日本を変えていくきっかけはあちこちに転がってると思います。みなさんが知らない情報があって興味を持って自分で調べるところまでしてくれたらこのブログの価値が高まります。

真偽をまず疑いまずから調べるところからはじめましょう。学校では教えないことがたくさん世の中にはあると思います。まずは自己防衛的に物事を疑って自分なりの正解を導いていくことが大切なんじゃないかなと思います。

電車の「こうだったらいいのに」

 

みなさん、今日は電車で感じた「こうだったらいいのに」を2つ紹介します。

 

①なんで網棚って棒状になっているの?

②なんで寄っかかる人のことを気にしなくてはならないの?

 

もちろん前置きとして、線にもよりますということは前提として話をします。

 

そのような席に座ったことはありますか?

 

まず一つ目、

①「なんで網棚って棒状になっているの?」

 

 

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JR高崎線内の棒状の網棚

 

自分が立っているとき、荷物を背負い続けているのは厄介だなと感じますよね。

そのときにその荷物を網棚に「よいしょ」と乗せますね。

 

それです。それです。

 

そのときに網棚を見てみてください。

線にもよりますが、網棚が器になっておらず、棒状のポールが横に8本伸びていて空洞が確認できます。

 

立っている人は網棚を使えば自分の荷物による体への負担が軽減されていいでしょう。

 

しかし考えてみてください。

 

電車には立つ人もいれば座る人もいることを。

 

座っている人にとっては、自分の頭上で行われる他人の荷物のガサガサはなんとなく気になります。まあ、それはいいとしても、そのバッグに付着したホコリやゴミなどが落ちて来て自分の頭の上に着陸したらどうでしょう?

不快ですよね。というより、なんで他人のバッグについていたごみを自分の頭がキャッチしなくてはいけないのかと。その必要性がまるでない。

 

新幹線や他の在来線などでは大抵その網棚は文字の通りアミアミではなく、お皿のように、板のように設置されています。

 

これは単純な話なんです。

そのような形の網棚に移行するべきではありませんか。

 

板状の網棚なら荷物の安定感においても格段に向上しますし、座る人の頭には何も起こりません。

 

次に二つ目、

②「なんで寄っかかる人のことを気にしなくてはならないの?」

 

どういうことか?

解説しましょう。

 

たとえば、あなたは電車で端の席を確保できて座っているとします。ロングシートと言われる座席の端です。すると大抵、板側、つまり人と接しない側に寄ったりしますよね?

 

そのときです。そのとき次の駅で乗って来た髪の長い女性がその面の裏側、つまりドア側に立って寄っ掛かります。

 

するとどうでしょう。

その女性は自分の髪が長いことをケアせずに寄っかかったままでいるでしょう。そうすると、その髪は座っている人の顔の前または頭や肩に乗っかってきます。

 

そのときこう思うのです。

なぜ、わたしはあなたのその長い髪の毛をあなたが管理しないことによって気にしなくてはならないのですかと。まるで必要性がない。

 

バッグの荷物や服の余分なボリュームでも言えます。

togetter.com

 

違うケースもあります。

タバコを普段吸ってると思われるタバコ臭を身に纏った人がドア側の面に寄っかかるとしましょう。

 

座っている人(筆者)にとってはその臭いですら強烈に感じるのに、その衣類などが自分の顔付近に接近するのです。こんな拷問はありません。

 

「席を変えればいいじゃん」

 

ちがいますよ。なんで、関係のない人が、本来は被るはずのない出来事に追われて、その不快な思いをしたままでいるのに、自分の行為が迷惑な行為だとも気づかずにいる人が好きなように美味しい思いをするかと。そんなことあって良いのでしょうか?

理不尽でなりません。

 

そんな泣き寝入りは嫌です。

大したことないけれど、大事なことです。

 

だから単純です。

 

網棚につながるくらいの高さで仕切りのボードを設置して欲しいのです。

 

たとえば相模鉄道が新型デザインを施した車両を製造したという記事です。

ここに出てくる仕切板は素晴らしいと思います。透明のアクリル板でしょうか?そのようなもので座席の端を完結させて、立ちながら寄っ掛かる人による座席部へのはみ出しを制限しています。

しかしながら、現状検索でヒットするものは数少なく、筆者自身もどこかでそのような高い仕切板を設置している車両は見たことがあるようなないようなの曖昧な記憶でうまく思い出すことができません。

 

news.mynavi.jp

 

さらに調べてみると、主な首都圏の電車の車両としては、JRE231系(旧型山手線、東海道線高崎線宇都宮線、中央総武線など)やE233系(東海道線高崎線宇都宮線京葉線埼京線南武線横浜線など)の車両は席の端の仕切りボードが高めに設置してあるようです。

 

m.chiebukuro.yahoo.co.jp

 

逆に高いということがここでは議論されていますが、個人的にはこの高さでは物足りないと思っています。

 

ただリンク中にもあるように、仕切板にくぼみをつけることで座席に座る人の肘掛になるよう配慮が施されているようです。

 

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埼京線の仕切板は半透明。くぼみがあることが確認できる

 

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高崎線の仕切板。くぼみがあり肘掛の役割をする

 

例えば下のリンクのように、高めの仕切がある車両もあるみたいですが、インターネットで首都圏の電車でこのようなものを探し出すことは難しいように思われます。

 

skt48.cocolog-nifty.com

 

 

もし、首都圏の車両で高い仕切板を設置している車両があれば教えてくれると喜びます。

 

産業としての大麻栽培2


前回の記事のつづきを。

前回の記事では大麻に対する認識を改める必要があるのではないかという提起をさせていただいた。

 

 

大麻の有用性

こうして論じてきて、じゃあ大麻の何がいいの?って思うのは自然なことだろう。

前述の厚労省発信のパンフレットには「大麻は可能性を秘めている」というのはただの謳い文句だと主張しているが、本当のところ、それはどうなのだろうか。


1.自然環境を汚さない

2.汎用性が高い

 

だいたいこうだろう。

 

1つ目はやはり、植物として純粋に素晴らしいものであるということ。


農業をする上で土壌はすごく大事で、いくら良質な土壌であっても、また、良質な土壌にするために何年もの努力を積み重ねたとしても、たった1回の農薬散布によってその努力は水の泡となる。それぐらい農薬は強いものだし、土壌は敏感なものだ。

そして、輪作にもあるように、土壌環境の悪化を防ぐことが効率的な農業にとっては重要なのである。


大麻栽培は、その点で有益である。根ごと引っこ抜くことができるために、その後の土壌を柔らかくするため輪作に向いている。また、化学肥料によって悪化した土壌の改善を促す効果も得られている。北海道北見市の実験によれば、大麻の栽培は、過剰な化学肥料の使用によって地中に残留した硝酸性窒素の削減に貢献するという。

この実験では、化学肥料の使用を前提にした土壌改善を調べたものだが、そもそも化学肥料に頼らずに野菜を栽培することが理想である。

 

その点では、大麻栽培には農薬や化学肥料を必要としない。大麻は基本的に生育に場所を選ばない植物と考えられ、グリーンランド、北極南極を除いて地球全ての地域での栽培が可能だと言われている。ちなみに日本でも全然までは普通に栽培をしていたという話は、その時代を知る人に話を聞けば、簡単に知ることができよう。


無農薬で良質な大麻を栽培可能にする理由としては、株間の距離を短くすることで真っ直ぐな茎に育てることができ、虫が畑の中に入りづらくすることがまず挙げられる。また、畑の中に風が入りにくいため細い茎でも真っ直ぐ育つ。そして日が当たらない部分は葉も付かず、茎の中も柔らかいまま生育することで良質な繊維をとることができる。

 

2つ目は汎用性が高いということ。つまり大麻は麻薬だけではないということだ。大麻は色々なものに化ける。建材や断熱材、塗料、ヘミセルロースプラスチック、メタノール、ガソリン、紙、ロープ、注連縄など神事に使われるもの、宗教儀式、衣類、食用油、治癒薬、鎮痛薬、など、とにかく幅広く応用が効く。

 


紙としての大麻

繊維をとった後に残留する茎の中心部は「ハード」と呼ばれ、これにはセルロースが含まれる。これを有効利用することで紙を作る際の森林伐採の必要性が解決され、かつ、ダイオキシンを含有しない上質紙を作ることができる。また、0.4ヘクタールの大麻畑が紙の原料となる時、約2ヘクタールの森林が救われると言われている。

1883年までは世界中の紙の75~90%が大麻を原料とし本や、債券、新聞、聖書など様々なものに使われた。有名な話だが1776年のアメリカ独立宣言の草案の紙も大麻由来だ。

 

燃料としての大麻

さて、石油燃料に頼らざるをえない現代社会なわけだが、そうじゃない選択肢も当然ある。近年ではバイオマス燃料とか言って、農作物の廃棄や家庭生ゴミから変換したエコな燃料として話題を集めているが、大麻も燃料を作ることができる。

 1941年にアメリカのフォード社がヘンプオイルで走る車を開発した。フォードはこの時代にすでに大麻の茎から採った成分でエタノールを作り出し燃料とし、車体にも大麻由来のプラスチックを導入していた。恐るべしフォード。

現在はイーロンマスク氏が経営する米テスラが完全な電気自動車を開発し販売までしているが、まだまだ多くの国で導入するには課題が多い。ヘンプオイルは圧搾機が個人で所有することができ、それで車が走るのだから、充電箇所が未だに不十分な電気自動車よりも可能性があるかもしれない。自分の家の庭で大麻が栽培できる時が来れば、自家栽培大麻で作ったオイルで自家用車が走る。こんなにサステナブルに完結する移動手段はないのではないか。

そして特に重要な点は排気ガスの排出による環境汚染が圧倒的に少ないことだ。化石燃料はすでに死んでいる(絶滅種)が、バイオマスは生きている植物由来であるため成長過程において光合成をし二酸化炭素を削減する。加えて、バイオマス燃料は硫黄を排出しない。

 

食用としての大麻

日本では意外と知られていないが、日本人だって大麻の一部を無自覚に摂取している。なんだなんだと思うかもしれないが、それは「麻の実」だ。これはたいてい加熱処理され新芽がでない状態になってから輸入され、我々の口に入る際には、あの七味唐辛子の一味として大活躍している。

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画像はwikipediaより

 

知らない間に食べているんである。無自覚に触れているんである。こういった事実に気づいて、すこし考えてみることをお勧めする。そして少し調べてみて、その可能性について知っていったらすこし世界変わるかもしれない。

 

その他にヘンプシードナッツと言われる麻の実ナッツや、そこから油を抽出したヘンプシードオイルなどがある。引用しちゃいましょう。

 

必須脂肪酸は油の中に含まれている栄養素で、人の体の中では作ることができないので、食べ物から摂取する必要があります。私たちが生きていく上では無くてはならない「必須」な栄養素です。 ヘンプシードオイルには、人間の体に必要な必須脂肪酸の含有量が約80%。植物油の中では最も多い含有量であるといわれています。主に「リノール酸(オメガ6)」、「α-リノレン酸(オメガ3)」と呼ばれる脂肪酸が豊富に含まれています。 健康と美容を保つために必要な必須脂肪酸は、バランスよく摂ることが大切ですが、WHO(世界保健機関)や厚生労働省が推奨するリノール酸とα-リノレン酸の割合が4:1なのに対し、ヘンプシードオイルに含まれるリノール酸とα-リノレン酸の割合は3:1と、非常に理想的な割合となっています。 スプーン1杯で1日に必要なオメガ3が摂取できるというわけです。 さらに、ヘンプシードオイルには天然の食用油の中で非常にめずらしい「γ- リノレン酸GLA)」を含んでいます。そして、欧米では深刻な問題とされているトランス脂肪酸はゼロですので、とってもヘルシーなオイルです。

栄養価について | Hemp Foods Japanより引用

 

ヘンプシードオイル欲しくなってきたでしょう。

 

ちなみにヨーロッパでは大麻の種子は釣りエサとして大人気らしく、種子をばら撒き水面に浮かんでくる魚たちを釣るのだと言う。また、日本では1937年の大麻取締法の制定前までは鳥のエサとしても実に活躍していた。大麻の種子を他のエサと一緒に混ぜて餌付けをすると面白くもその種子から選別して食べ始めるのだと言う。

 

 

大麻の医療効果
医療の面についてはここでは議論はしないが、記しておく。なぜなら、個人的には医療大麻や嗜好品としての大麻には興味がなく、単純に環境に対して効果を発揮する産業用大麻についてだけ考えているからだ。ただ、医療効果やリラックス効果が得られるとの説もあり、無視することはできない。みんなが知っている鎮痛薬としての役割の他に、緑内障や癌、嘔吐、エイズの治療にも効果を発揮すると言われている。

 

つづくかも

産業としての大麻栽培1

久しぶりの網地島

帰国してから1ヶ月が経とうとしている中で、先日は宮城県石巻にある網地島という離島に行った。人口は年々減り、1年に10人程度のご老人が亡くなっている超高齢化社会である。

そこに行った理由は、もちろん去年からのご縁のある友人のもとへお手伝いさせてもらいに行ったのと、日本での大麻のルーツを探るため、そして自分の思う大麻への認識を確認しに行くためでもある。大麻に関してはここ最近のことなのだが、真剣にその可能性と魅力に引き込まれている。

 

 

ちょっとあなたはそういう人だっけ?

わかる。

大麻大麻ってここまで何言っているの?ということを思った人も多いかもしれない。

アメリカから帰ってきて「アメリカだからな、留学ぼけか」と言われるかもしれないが、純粋に「大麻」という植物が熱いということを知ってほしい。

ここで単純な質問だが、大麻と聞いて連想するのは麻薬か繊維か。

麻薬を想像したあなたは、自身を日本教育が生んだ平均的かつ均一的な、誤った知識の結晶と改め、今後も引き続き必死に石油価格とにらめっこをして生きていくことになるということを知ってほしい。

繊維を想像したあなたは、これからのエネルギー問題をはじめ諸々の資源問題を解決するセンスを持っていると思っていいと思う。

この岐路は、きっとあなたの人生の岐路になるだろうし、それは同時に地球のこれからの選択を担うことにもなる。

大げさかもしれないが、この可能性にはそれだけを言っても過言ではないくらいのパワーと価値を秘めている。

 

そして、誰でも今から変えられる、明日から変えられる、そういうリアリティーの中でこの問題は存在しているのである。

なぜならひとりひとりの意識は変えられるからだ。

「麻薬としての大麻」から天然資源や繊維の「産業として大麻」へ。この思考はいつでも誰でも始めることができる。

現にこのまま石油を使い続けてもどうせ今の世代が死ぬ頃にはまだ石油は枯渇しない。しかし、地球の未来を考えよう。地球が作った素晴らしい天然資源を有効に活かさない選択のほうがよほどリアリティに欠ける。誰かが作り上げた虚構や誰かが作った既成概念を鵜呑みにするのはもう終わりにしたほうがいいと思う。

 

周りを見渡せば、あなた自身が変わることができる選択肢がたくさんある。

 

 

いま、たいせつなこと

この問題の真髄は大麻を一緒くたに麻薬と教えている日本の教育、つまり、こどもたちを均一的に平均的に作り上げていく割には、ダイバーシティ(多様性)などと謳うこの国のあり方にある。従順主義のような、まるで映画の中で監督の期待に完璧に応えるように仕上げられた役者としてこどもたちが放たれているような、国家の創作物としての教育であるように感じる。

それは学校で教わったことを正しいと思い、それが本当なのかどうなのかを自分では問題視、疑問視しないような頭に出来上がっていくことを意味する。

 

トピックはなんでもいい。トピックはなんでもいいんだけれど、その情報の照合作業を踏むようなプロセスが養われない。それが国家の意図でありあえてなんだろうけれど。

そして、それと同じことが言えるのが大麻というトピックである、とここでは言いたい。

 

見える問題点

このニュースを見て欲しい。

 

大麻摘発3千人突破=過去最多、高校生ら増加-「依存性ない」誤情報影響か・警察庁:時事ドットコム

 

今、大麻関係の知識で大切なのは、このニュースで言われている次元の「依存性がない薬物」という考えではなくて、「有毒性のない繊維」であったり「環境にやさしすぎる資源」というふうに思考を転換することではないかと思う。

 

ストップ大麻!大麻の使用は有害です!大麻の不正栽培は犯罪です!|厚生労働省

【ご注意ください! 大麻栽培でまちおこし!?~大麻の正しい知識で正しい判断~】

 

これらは厚生労働省が後悔している大麻に関する情報である。大麻をひとくくりにし、それを麻薬だとするような論調で、その危険性を謳っている。

また、2つ目はまちおこしの材料にされる恐れがあると主張している。

 

いずれも厚生省初のこの情報が正しいと主張しているのだが、実際はそうではない。

 

まず問題点1つ目。

大麻は有毒性のある種だけではないということ

つまり、大麻1種類しかなく、一般的に大麻と呼ばれるものがすべて体内に取り込むと効果が現れるというわけではないということである。

実際に神事に使用されるしめ縄や横綱の化粧回しなど神聖な儀式などに使われるものは栃木県の日光市にある大麻栽培農家が扱っているほぼ無毒性の種「とちぎしろ」によって作られている。そしてその農家に厚生省は栽培許可を下ろしているため無毒大麻があることなんてのはとっくに知っているはずである。したがって、大麻に関して悪い面だけを露出させネガティブなキャンペーンを積極的に行っているとしか思えない。自国の産業を成長させない意図が見え見えなのである。

 

品種改良によって誕生したとちぎしろのTHC(テトラヒドロカンナビノール、大麻の薬理成分)濃度は0.2%。欧州で定められている産業用大麻THC濃度は0.3%未満。この基準を十分満たしている。とちぎしろはいわゆる無毒大麻と言われている。

 

そして問題点2つ目。

産業としての側面を扱う情報が皆無であること

現に国内に存在する無毒大麻に関する情報はすすんで国民に共有すべき事柄である。大麻特に無毒大麻の栽培の公益性を無視してまで、無毒大麻をおおっぴらにしない態度は、どうにも不思議なものである。どこかの石油ビジネスで先陣を切る国の言いなりなのだろうか、実際に大麻栽培が禁止されたのは敗戦後のGHQによる統治以降のことであるのはなんらかの関係性を示している材料にはならないだろうか。

 

 

 国策としての大麻禁止

こうした国、同盟国をあげて取り組んでいる大麻の制限が生む結果は、化石資源ありきの自然の教訓を省みない行き過ぎた資本主義である。

麻薬としての大麻を禁止するだけの理由があるならば、産業としての無毒大麻まで禁止にする理由だってあるはずだ。本当にあるのだろうか?

 

それを説明できないようでは少なくとも筆者は納得しない。

 

歴史的な経緯を辿れば一般的には、GHQ占領後、古くから日本に自生をしていた存在として日本国民にとって精神性の高い植物と認識されていた大麻は、戦時中の天皇と国民の信頼関係や忠誠心にあるように、その日本人の精神性からは切っても切れないものとして占領軍にとっては考えられていた。

 

そして完成したのが大麻取締法である。これはアメリカ軍が起草して、てきとうな危険性を謳う理由をつけて成立したアメリカ主導の法律である。

 

そしてまた、大麻という植物が有用過ぎて、あらゆるものの代替品としての用途を持っているため、戦後の社会を司る予定であった石油にとっては非常に厄介な存在であったのだろう。日本なんて所詮アメリカの属国としての運命を突き進んでいる。今も昔もそれは変わらず、米軍基地問題などとともに現代に尾を引く、生きる属国なのである。

 

そうした経緯を経て、今もなおそれを受け継ぐ日本という国には、過去の自分たちを忘れ、さらにはその事実すらも知らない世代も増え、このまま大事なことに気づかずに衰退していく未来が見える。

 

こうしたことを懸念すると、陰謀論だのオカルトだの、そういった話になりがちなのだが、一回フラットに考えてみてほしい。偏見や個人的な知見なしに考えてみてほしい。大麻自体の環境に対する持続可能性と資源としての効率は、目先のお金儲けや目先の便利に目をくらますことなく地球を大事にしようと想う心があるならば、誰がどうみても石油と比べ、そのパフォーマンスの高さは一目瞭然である。

こうした可能性とは対照的に現状の規制があるという事実を色眼鏡なしに見ても、どうしても、なんとなく繋がっているのではないかと思わざるを得ないのも正直なところである。実際に筆者もそれが本当なのかどうなのか自分自身興味があって、こういった仮説を立て自ら判断をするために調査をしたいと思っているところである。

 

 

つづく 

サービスとカネ

ご無沙汰しています

バタバタしている帰国後に「1ヶ月間更新がありません」とはてなブログからメールが送られて来たので書きましょう。

そう決めたら、しっかりと書くことがあった。

 

お金と仕事

最近ちらほら、ちょっとしたことかもしれないが、頼まれた仕事にお金が生まれるということがあり、本当に感謝である。

というのは、自分の提供するものにお金を出してくれる人がいることに喜びを感じるし、もっとその人のことも喜ばせたいと同時に思うからだ。

自分が生み出したことで誰かを幸せにできるのなら、こんなに幸せなことはないくらいに思う。

美しいことを言うようだが、本当にそう思う。そうじゃないお金のもらい方は逆に気が引けるくらいかもしれない。

それだけでなく、まだ自分の技術や生産力には自信がないとしても「お金」という存在が絡むだけで、「その仕事に、自分のセンスにもしかしたら自信もってもいいのかも」という気にもさせてくれる。

 

ただ、お金が持つパワーを伴ってそのサービスに値段がつくという作業自体は、今まで散々、ものを買ったり利用して来たりしているのだけれど、実際に自分が生み出したものを介していないと、どうにもピンとこないというのは大事なポイントかもしれない。

 

それで、一通り生む作業、与える作業、お金をいただく作業を経て思うのが、何かを自分が生むとき、その影響がどのように出るのかに重視する必要があるということ。

 

つまりはお金じゃないということ。

それをしたことで誰がハッピーになれて、どれくらいその人にとって重要度が高いものなのかということ。

 

「お金じゃない」というのは、「お金」をどういう存在としてみているかによるが、ここでいう「お金」は数字的な価値のことを言う。

 

だから、ある仕事に対してお金が発生するのだとしたら、その仕事をする時にお金とその仕事の関係をよく分析して自分のスタンスを考えないといけないと思う。

 

個人的には、たぶん多くの作り手は「そのサービスの対価としてお金を与えられる価値がある」ものを作りたいし、だからこそ、もしお金をもらうときは、その提供されたサービスによってどれほどの豊かさや幸せが支払いをする人にもたらされたか、それを基準に値段を決めて欲しいと素直に思う。

 

しかしながらそれと同時に、これは純粋に個人的にも自分のサービスについて興味があることなのだが、お金という数字的価値で自分の技術の良し悪し、つまりそのサービスの価値を知れる。お金が、そのサービスがどれだけ人に喜ばれるものなのかを知る判断材料になるというのも要素としてはある。

 

 

実際、去年の今頃に一つ仕事を頼まれたことがあったことを思い返すと、今、あのときははっきりとお金が目当てだったと感じる。

 

言い換えれば、その金額が欲しいからその仕事をやるという気持ちが少なくともあった。相手はもちろん知り合いの人だったけれど、仕事をする過程で正直その金額が持つパワーに多少魅せられて、純粋な感情ではなかった。

 

そのときは一応納得してもらえるようなものを作れたのだけれど、どこか半信半疑で「本当に使ってもらえるのか」とか「この仕事でその金額をもらっていいのか」とか、何かと不安を感じていた。

 

それはきっと、その仕事が、もたらす価値について知らず、その作業が「仕事」を超えられなかったからだと思う。

 

それからも、実際にものを作って誰かを提供するとき、このような感覚が、続いていた。いまいち自分の質に自信を持てないというか、プロじゃないしとか言う逃げ道だったのかもしれない。

「とりあえず仕事はしたけど自信がない」とか「本当に自分のセンスは必要とされているものなのか」とか「完全に喜んでもらえるとは期待してない」とかいまいち腑に落ちない中でやっていたのは否めない。ある意味での「僕でよければ、、、」状態だった。

 

このような感覚は間違いなくネガティブだし、このメンタルでは才能があったとしてもいいものは生まれない。

 

お金とネガティブ

そしてだいたい、そういうメンタルには「お金」が絡んでいる。

 

たとえば、お金に対する考え方やその時の状況など「お金がない」だったり「うまい話だ」とか、そういうものが少なくともあると、自動的に100の仕事はできなくなると考える。どこかで、仕事をすればもらえるものはもらえると思って自分のゴールを設定してしまったり、お金のためにやっているようでどうにも自分でも100の仕事をしたと言い切ることが難しい。

 

このように、お金が事前に提示されていたりして「お金」に関してフラットに考えることができない限りは、提示されたお金に対しての仕事量とか割を考えてしまいがちになる。まあしかし言ってしまえば自然なことなのかもしれない。より仕事らしく仕事をするとね。

 

でもそうじゃない、と最近読んだ本が教えてくれた。

 

お金はサービスの対価

それからモットーにしているのが「お金とはそのサービスの対価」という考え方だ。

 

お金とは、払われるべきものに払われるものであり、使われるべき時に使われ、使うべきものや人に使うのである。それは、ある商品やサービスが、その金額を払うだけ価値のあるものかどうかという基準だ。ある人がお金を払うに値しないと考えるサービスに、ある人はお金を払う。逆に、ある人がお金を払わないサービスに、お金を払う人もいる。

 

それぞれの人間の中にあるそのお金を払う基準や意識で現在の経済は回っているのだけれど、自分が本当の意味でお金と付き合うとなると、そこらへんの価値観は自分なりに磨いていかないといけない。

そうすると、買うべきものと今必要ないものが自ずと見えてくる。これは基本のようだけれど、普段はいろんなストレスや欲にまみれて、ものの本質が見えにくい。しかし価値観が磨かれていると、「買うべきもの」への判断力が養われいい循環を生む経済活動ができる。

 

 

それを踏まえて、話を戻す。

それからまた、最近お金が発生するある作業を頼まれ、お金の話になったのだが、不思議なことに、そのときはいくらとるとかは置いといて、その人が自分の仕事でどれだけ満足したかをその人なりのお金の価値観で表現してくれればいいと考えるようになった。本って素晴らしい。いい本に出会った。

 

そうすると、面白いことに、まず頼まれた時点でお金が絡んでいないことから、自分のサービスを本質的に認めてくれていると感じれるし、よりいいものを作りたいから作る過程でも妥協は起こらない。なぜなら、その依頼に応えられるようなものを提供してさらに喜ばせたいし役に立ちたいと思うからである。その結果としてついてくるのが「感謝」という名の「お金」であって、それは「仕事量の値段」ではなく「仕事内容の価値」としての「お金」である。

 

この考え方はシンプルだ。シンプルなのだけれど、とは言っても現状お金がないとか、なかなかお金に執着していたりという人にはなかなか理解できないことかもしれない。

 

しかし、そうだとしても、自分を高めるためには自分の内面を騙して、実践してみるということも大切だ。

 

金がなくたって、そうした考え方を採用してみて、人の役に立ちたいとか、自分のできることで人が喜んだらどれだけ幸せかということを考えてみる。それで、今はお金がないかもしれないけど、その中でできることは何かを考えて行動してみる。多少は大変な仕事をしなくてはいけない期間もあるかもしれないが、根本は、その状況を抜け出すために努力を惜しまないようにしていけたらいい。そうすることで、いいお金が舞い込んでくるし、自分の意識を高めることで、いい仕事を提供することができる。

 

 

そのような、心で生きていきたい。

この記事は自分自身に対する戒めである。