ノータイトル
あと2週間でアメリカ滞在が終わってしまう。
今まで出会った人、特にメッセージくれたり仲の良かった人とはなるべく帰る前にあっているから最近は忙しい。それはそれなのだが、インターンといい、勉強といい、そんなに充実していたかって言われると、心から頷けない。
自分の無力さとか中途半端さとか、短所出まくりのこの留学だった。長くアメリカにいたいという甘い考えで伸ばした滞在も、せっかくならもっと実のあるものにできたかもしれない。
きっと人並みにはやっている。なるべく英語を使うようにしたり、自分があまり英語を話せない環境だと思えばすぐ帰ったり、行かなかったり。日本人とはあまり交流しなかったり。
こっちの文化的に、来るもの拒まず去る者追わずなんだけど、大人数の中でいると萎縮してしまう。笑
それもわかってるからなるべく個人的に、1対1でご飯に行ったりとか、多くても4人とかにするようにしているんだけど、まあパーティーとかは苦手なんだよねえ。そういうときに本当に思うのは「だめだなあ自分」と。
たぶん基本的にパーティー向きの人間でないのも相まって、英語の壁もあるし、テンション上がらないと上がらないままでやる気も出ないし、不完全燃焼でどんどん輪から遠ざかっていく。
別にそんなのは必要ないのに必死に帰る理由探したりして、逃げようとする。
実は今もそうしてきた帰りで、実際つまんなかった。
今日のは実際自分以外は、ほぼみんな同じ会社の同僚で、内輪の話で盛り上がるしもうコミュニティできてる感じで、そういうのに入っていくのが本当に苦手。笑
やがて喋らなくなる。
もっとラフにいければいいんだけど。
自分が話せないとつまらないし、そういう環境っていうのはやっぱりこの段階では少人数だから、まだそういう段階ではないんだろうなと毎回思うけど、思う。
性格的に、こういう人間だからもうしょうがないんだとは思うけどね。それって変えたほうがいいのかな。
インターンに関しても、やることがあまり決まってなくて、仕事も与えられない中で、何かやらなきゃなとは思いつつも、いろんな条件とかでどこかでやっぱり、もう時間もないし何もしなくてもいいやって思っていたところもあって、大きいことはあんまりしていない。環境のせいにするとこう。
まあ、これが今の実力で、結局最近思うのは、やっぱ自分は与えられた環境のほうが生きるのではないかっていうこと。与えられた条件の中で何か効率性を見出すとか、もっとこうしたらいいとかは思うんだけど、もしかしたらゼロからイチを考えるのが苦手なのかもね。
考えてみたら今までのバイトとかって、今回のインターンほど自由じゃなかったし、やるべきことが明確にあったから、作業できてた部分があって。でも今回のお店のオーナーは、仕事を割り振るとかそういうタイプじゃなく、1人でそのお店を管理しているから日々忙しくもあり、、そして金曜日と土曜日の週2回しかお店はやらないから。会うのも基本的には週2回。メールの返事も遅い。だから時間がなかったって言いたいけど、いいわけよね。笑
さあ、アメリカで何が得られたか。
友達をたくさん作るとかたくさん話す機会を確保するとか、そっちの方面ではおおむね満足である。まあベースとして、そういうつながりを作ることに重きを置いていたからそういう意味ではいい結果である。
ただ、何が得られたかっていうと、何が得られたんだろう。。
経験は得られた。その経験から何を学んだ?
あとはさっき書いたみたいな、物足りない部分、弱点も認めることができるくらい素直にもなった。きっとそういうものもちゃんと感じれたからこそなんだけどね。
言葉は難しい、と改めて思う。しかしながら自分にとって不利な境遇でもどんどん消極的になってはいけないんだということは、一見地味に綺麗事のようで本当に大事なことであるということ。
あと夢とか理想を語ることはとても重要。それはなんとなく理解はしていたけど。自分の考えを伝えることだし、そのアイデアや人間性は通じるものがあるし、そんなの片言の英語だって伝わるものは伝わる。
姿勢で示すことこれは特に重要。そういう発言に実力が伴ってなくても、発言するアクションは評価されるし、それは同時に自分への宣言にもなる。あたり前だがそういうのはやっぱ大事だなと思う。
そうすると話に乗ってくる人もいるし、なんか広がる。
そんな中で、挨拶とか自己紹介は比較的自信ついた(気がする)。
もう何回自己紹介したことか。そしてその分だけ、英語の簡単な言い回し「That's good」的なものも、テキトーな返しだなあって思いながら何度ももらった。もう気にならないし、この人は話す気がないんだって思ってもう話をしたくなくなる。けどきっとそれを面白いって思わせるくらいにならないといけないんだろうよ。
たぶん自分のすごく日本人的な部分って、相手がそういう話す気がないとか、つまんないって思ってるんだろうなあとか、すぐわかってしまうことなんだなあと思う。もっと鈍感で気づかなければ楽なところも、感づいてしまうのが本当に悲しい。気にしないけど。
だから相手が自分に興味ないと判断すれば、自分からは基本的には閉ざしてたなあ。笑
そういう部分、アメリカにいるのになあとは思いながらも、やはり、自分の心に素直だから、自分が日本人らしい部分を非常に感じることができる期間であった。
まあつまりなんだっていうと、日本でもやっていけるか不安!!
でももう日本語ならなんでもいけると思うけど!!
帰ってから楽しみだね、、
その環境は結果を美化するためのものか、ただの環境か。これを常に考えないといけないね。それで、自分を美化しないように必死こいてやらねば何にもついてこない。
それがそれであるために
アメリカに来てから、馬鹿の一つ覚えみたいにパスタを食べている。
理由は簡単で「美味い、速い、安い」この三拍子である。特に最近太ってきたのは否めないが、帰国前に痩せようと努力しようかなと思っている。おなかがやばい。、
今回の記事は、くくるという作業いわゆるステレオタイプな考え方と思われるかもしれないが、個人的な経験に基づく体感を正直に書こうと思う。
結局比較をしたら傾向や志向を見出す手段は「多くのーー」とか「ーー傾向がある」などが主な表現になるからである。数字的なエビデンスはないのでご了承ください。
「本質」と「目的」
さて、冒頭パスタの話をしたが「安くて速い(早い、以下はやい)」といえば、ファストフードであろう。そしてまさにファストフードの聖地アメリカにいるわけだが、やはり有名なマクドナルドだけでなく、多くのファストフード店が存在していて日本では聞かない名前も山ほどある。中にはその味が好きという人もいるが、だいたい人々はそのはやさと安さを求め来店するんだろう。
その証拠に、日本でも増えつつあるスターバックスのドライブスルーなど、何かにつけてドライブスルーなのである。これは「楽さ」という需要に応えている他に、アメリカの人々は待つことがあまり好きでないということもあると言えよう。
このような、人々の「待ちたくなさ」で言うと、例えば、これは自分が試合観戦に行った時の話だが、サッカーの試合やバスケットボールの試合で、試合開始の30分前から会場入りしまだかまだかとワクワクを味わう観客よりも10〜5分前に来てだいたい試合開始ちょうどに合わせて来る観客の方が数的には多いと感じた。
また、信号は車さえいなければ赤でも渡るし、駅の電光掲示板で電車待ち10分という表示を見ると、ぶつぶつ言いながら自分で歩き出す(ポートランドは歩ける街である)。
つまり、待ちたくないというのが根底にはあるんだろうと思える。
さてファストフードの話に戻すと、こうした人々は、食事そのもの質というよりも食事の取り方の質を求めているように思える。もちろん「ファストフードなんて行かないわよ」という人も一定数いることは忘れないでいただきたいが、健康が重要視されてきている今でさえこのファストフードが続いているということに注目したい。
つまり、オーガニック食品のみ食べる人や、そうした食事を取る努力をしている人、いわゆる食事に気を遣っている人とはまた違った視点で、食事を「行為」として捉える人がいるということだ。
一般的に後者は「食べる」という行為ができればいいのであって「食材の質」はこだわる必要がないと考えているのだ。
これは、ドライブスルーをはじめとするファストフードの流れなどにも関連している。いいものを食べたかったらマクドナルドのようなファストフード店にはもちろん行かない。しかし、質は求めずその「食べる」という行為を満たすことができるものならよしという考えもある。その代表例が、安いスーパーマーケットの内容量が多いにもかかわらず値段が安い冷凍手羽先を買うだとか、安い卵を選ぶだとかである。
筆者はオーガニックのものを食べようと努力しているので、そういった感覚はわからないが、先述の例で言えば、別にお金に困っているわけでもない人が、そこまでして逆にこだわらないのは、やはりそういった理由が関係しているのではないかと思う。もちろんアメリカにいる人だけでなく、日本にいる人でもそういう感覚や価値観の人は一定数いるとは思うが、やはりこちらは顕著である、そういった意味で取り上げている。
で、何が言いたいかというと、彼らは「実質的な意味や質」よりも「その目的を満たすこと」に重きを置いているということだ。
もうひとつ例をあげる。
こっちに来てからよく目にするのが、バッグや服が汚いということ。言い換えれば、それらを汚さない努力をしていない。逆に言えば、そういった衣類や日用品は消耗品であり、汚れて当たり前という考えかもしれない。
電車内や路上、教室など、いろいろなところでバッグを地面に置く。そして授業中でさえ足を伸ばして机の上に置いたり、別の椅子の上に置いたりして楽な姿勢をとる。最初見たときはすごい違和感を感じたのを覚えている。きっとその結果普段使いのバッグはみるみるうちに汚れていくが、しかしその機能性には何の影響もないため、特段気にしないということなんだろう。
この例こそ今回書こうと思った出来事なのだが、どうしてそんなに汚れたバッグを使うんだろうと考えたら、こういうことなのかなあというのが今回の記事である。
これも先ほどの「食べる」例と同様「服は着るものであって、綺麗さを保つ必要はそこまでない」つまり「『着る』という行為を満たしていれば、その服の質や価値はあまり気にしない」とは言えないだろうか。
もう少し砕いていうと「ブランド志向ではない」とか「興味がない」とかだろうか。
肌を覆って寒さをしのぐことができる衣服や、ものを入れて運ぶことができるバッグのその機能性が損なわれなければ、そのバッグのブランドや使っていく中での汚れなどの綺麗さは気にしないこの例と、食べ物の良し悪しをあまり気にしないためにただ空腹を満たすファストフードで十分だと考えることは、マクドナルドをブランドだと考えなければほど同じものだと考えていいはずだ。
ついでに、机の上に足を伸ばしたり、机に座って椅子に足を置いたりする行為自体は、誰もそれが失礼にあたるなんてことは思わず「そこに椅子があるから足を置く、そこに机があるから座る」と言わんばかりの態度で行われているのである。電車内で向かいの椅子の上に足を伸ばす人も、他に座りたい人が来ればそれを止める。その必要に迫られない限りは見た目よりも快適さや、その椅子を椅子であることを、よく言えば十二分に生かすことを重視しているとも言える。
ただ、個人的には数秒前まで足が伸ばされていたその椅子には座りたくない。しかしそんな人でも、別の場面で立場が逆ならきっと足を伸ばしている。現に、人々は電車内で椅子に座るときに、座る前に自らの手で椅子をはたいたりしてその椅子が汚れていないかを確認してから座る。
それって、人々がそれをしている(足を伸ばしているだけでなく、綺麗に使わない)ことを認知していなきゃやらないし、それは同時に自分もやり得ることであるからだ。あるいはその経験があるから、はたくという行為をするのである。その点でお互い様な関係は生まれているのだが、、、。日本人の自分からすると、ここアメリカはそういった行為が黙認されるような、なんて気楽に生きれる国なんだ、とかたまに思うのだが、やはりそれはマイナスの方向で均衡が保たれているとも思う。日本は逆で、よくアメリカ人が「日本の電車内はリスペクトがあって好き」と言うようにポジティブな方向でその均衡が保たれている。つまり、電車の例で言えば「みんなやっているからやる」アメリカの例と対照に「誰もやらないからやらない」のが日本である。
話を戻すと、こういった物質的な機能にフォーカスしてものを使う人々が多いことは本当に感じる。日本では割と、そのものの質だったりを重視する中でもちろん機能性も重視もするし、いろんな条件を吟味してデメリットとメリットの総合点として考えるやり方が多いのかもと感じる。一方でアメリカにいる前述した人々は、あるものを、その目的を果たす手段やツールとしてのものでしかないと考えていると感じざるをえない。
それはきっと、何となく自分で捉えている言い方で言えば「物質的なアメリカと精神的な日本」という二局がなんとなく、存在しているのかなあと思う。
意味はありません!
知ってみて考えてみる
昔 こんなことがあった。
あんまり知らないって言いたくない。と率直に思う。だから考えてみる。
オウム死刑執行、その時日本では
先日、坂本弁護士一家殺害事件や松本サリン事件、地下鉄サリン事件を起こし、彼らの独特の思想、信条の元に多くの人の命を無差別に奪い去ったオウム真理教の元教祖である麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚含め、7人のオウム真理教教団幹部らの死刑が執り行われたという。
この死刑執行についてはさまざまな意見がある。以下順不同にツイッターでの意見を紹介していく。
昨日は、オウムのために、麻原彰晃こと松本智津夫のために、また新たに命が失われた日だった。あの男が言う救済を信じ、ひたすら追従した挙句に、人の命を奪い、自身もこんな最期を迎えることになった哀れな魂とその家族のことを思う。
— Shoko Egawa (@amneris84) July 6, 2018
麻原彰晃=松本智津夫死刑囚の刑の執行には2つの条件があった。(1)「強い法務大臣」具体的には後藤田正晴のような存在。SPが生涯つくことに耐えられる精神力だ。(2)後世の検証に耐えうる精神鑑定。上川陽子法相はこの2条件をクリアしていない。しかも異常な7人執行。政治判断だろう。
— 有田芳生 (@aritayoshifu) July 6, 2018
松本智津夫の死刑執行が終わって、井上嘉浩の執行も終わったと。で、あと五人の執行も本日中のみこみ
— 菅野完事務所☆彡 (@officeSugano) July 6, 2018
…ってのが、今報じられている内容だけど、これすごいな。
死刑執行がリアルタイムで報じられるって前代未聞じゃねぇかな。バーチャル公開死刑みたいなもんだ。
すごい時代になった つうか怖い
今、薬局でテレビ見てるけど、【衝撃 松本智津夫死刑囚ら7人の死刑執行】って、何の衝撃なのだろう。私は、いまだ執行されてなかったことが驚きなんですけど。来年、元号が変わることで死刑囚の恩赦の話が出る可能性があるとか。冗談じゃない!!
— するめのよっちゃん#沖縄は日本だ (@surumegesogeso) July 6, 2018
今回の上川法相の英断を支持します。
松本智津夫 #死刑執行 か。やっとか。
— 風鈴霞山89@地平を駈ける獅子を見る! (@WindbellMistyMt) July 6, 2018
にしても、例によって、「死刑反対!」と騒ぐ輩は、自分の家族・親戚が拷問で殺された挙げ句、ゴミ焼却炉で焼かれて、灰を便所に流されたり、幼子含めて一家惨殺されて山に埋められたり、地下鉄で毒ガス撒かれて殺されても、そんな事言えるのかね?#麻原彰晃
ご覧の通り、死刑執行反対と支持、意見は二つに分かれる。
今回の執行はいろいろな問題を含んでいる。
死刑制度そのものに関連して死刑制度のあり方を考える機会でもあったし、この犯罪組織と化した教団のような、新たな勢力の再発防止のための真相解明のチャンスを消したとも言うるし、死刑をリアルタイムで報道する感覚についても様々な意見があったし、また、そのほぼ同日に新人議員との懇談会を開き楽しく盛り上がった総理大臣を含む与党の議員たちもいた。
今日は27回目の #赤坂自民亭 @議員宿舎会議室、若手議員との交流の場ですが、#安倍総理 初のご参加で大変な盛り上がり!内閣からは#上川法務大臣 #小野寺防衛大臣 #吉野復興大臣 党側は #岸田政調会長 #竹下総務会長 #塩谷選対委員長、我々中間管理職は、若手と総理とのお写真撮ったり忙しく楽しい! pic.twitter.com/LHIKcBFowE
— 片山さつき (@katayama_s) July 5, 2018
豪雨、増水、、、 https://t.co/x70TxphILw
— buu (@buu34) July 5, 2018
たしかに、このツイートをする必要性がないことは誰がどう見たって明白ではいないか。ただでさえ、その翌日に死刑が執行されることがなかろうと、西日本各地で相次ぐ豪雨ならびに洪水被害、京都府は先ほど災害派遣申請を発表し、まさに日本で、日本の国民が危機に瀕している事態が起こっている。その前には大阪の大地震も発生し、未だ二次被害など予断を許さない状況である。
総理大臣もその都度一応、対応と言えるかわからないが、最低限の措置は行ってきてはいる。翌日にはコメントを発表し、対策室も設置はした。
しかし、この写真の総理大臣は楽しそうである。彼も人間だから楽しみがないと壊れてしまうのはわかるが、このようなあからさまな楽しい出来事の様子を、たった今楽しくない人が、たった今政府の助けが必要な人が見るわけである。インターネットとはそういうものである。
死刑囚写真に次々「執行」シール TV演出に疑問の声も:朝日新聞デジタル
いろんなことがいろんな角度から問題提起されているこの状況自体は、関心の度合いという面では、多くの人に考えさせるきっかけにはなっていると感じる。特に若い世代では再現ドラマや再現ドキュメンタリーでもテレビでやりさえしなければ、こういった情報に自ら触れに行くことは、国会中継を観る数よりも少ないのではなかろうか。いや、もはやないに等しいのではなかろうか。個人的にはテレビは観ないが、この手の事件のドキュメンタリーなどを観ることは好きなのだが、おそらく同世代でテレビをよく観る人でさえ、この種のものに触れようとしている人は少ないと思う。
そういった意味では、きっと、若い世代のこの事件を知らない人に届いた出来事ではあったのではないかとは思う。
しかしながら、映像を探しても出てこないのだが、このような記事ができあがるくらいその放送はひどかったのだろう。まるで、記事中にもあるように、選挙速報のように執行のラベルを顔写真に貼っていくような感じであろう。
犯罪を犯したもののいまだ人権は保証されている。執行された事実を報道することだけに留めて厳かに謹んで報道できないものか。これはイベントなんかじゃない。
そして、死刑制度そのもものあり方にも疑問の声はある。
このニュースにあるように、多くの国が日本の死刑制度の是非に対し、考えを改めるよう提案をしているのも現状である。実は諸外国特に先進国の中で実質素直に死刑制度を導入している国は日本だけである。
2017年12月現在、142か国が法律上あるいは10年以上死刑を執行していない事実上の廃止国であり、うち106か国が全ての犯罪について死刑を廃止している。OECD加盟国のうち、死刑を存置しているのは、日本・韓国・米国の3か国だけであるが、韓国は10年以上死刑執行をしていない事実上の死刑廃止国であり、米国は2017年10月時点で19州が死刑を廃止し、4州が死刑執行モラトリアム(停止)を宣言している。したがって、死刑を国家として統一して執行しているのは、OECD加盟国のうちでは日本だけという状況にある。
日本弁護士連合会│Japan Federation of Bar Associations:死刑執行に強く抗議し、直ちに死刑執行を停止し、2020年までに死刑制度の廃止を目指すことを求める会長声明
そんな中で、国内におけるこの一連の死刑執行に対する態度は、改めて死刑制度のあり方を考える上で、よく議論され多くの人に考えてもらうきっかけになったのではないだろうか。
問題はステータスではない
信者による猛烈な崇拝がたびたび社会的に話題になり、やがて信者とその家族の間でのトラブルが相次ぎ、看過できない組織へと発展した。そして世紀のテロ事件として日本全国を震撼させた一連のサリン事件で、オウム真理教という組織が社会的悪として決定打となったのだった。
ヨガサークルとして発足したこの教団には様々なバックグラウンドを持った信者が集まった。そこにはいわゆる高学歴とされる人たちも多く、のちの凶悪犯罪を引き起こしたオウムの頭脳の核として、つまり専門的な知識を持った信者として各方面で役割を担っていた。そして事件後からなぜそんな人々でさえ教団にのめりこんでしまったのかという議論はされてきた。
それにしても、高学歴の人がなぜ入信していったのかという議論がしばしばある。ある説では、高学歴ゆえに様々な実験や研究で詰まった果てに目にした、超科学的な麻原のペテンに虜になってしまったからとか言われている。
たしかに理解できなくもない。人間、無気力であり、あるいは何か手につかない時、ふと普段なら縁のないものや、普段なら手に取らないようなものに興味がわくものであろう。
例えば、ある人はテレビはおろかお笑いというものに全く興味がないのだが、ある日友達から面白いからと言われ渡されたお笑いのDVDやビデオをふと、観てみるかという気になる。この類の心理的な現象は多くの人が同意できるのではないだろうか。
あるいは、両親との関係、家族とのつながりも一因であるかもしれない。ある死刑囚の母親は当初は否定的だったものの、やがて自身も入信している。こういった、その人の人間関係を武器に次々とネズミ講のように広がっていくネットワークも、宗教団体における典型的な信者獲得の方法であろう。
しかしこういった要素も頷くことはできるのだが、個人的には、学歴や社会的な立場は関係ないと思っている。この手のものは、自分を否定したり自分が自分の信じるものを失った時、自分を保てなくなった時に、寄り添ってくれる拠り所、自分を魅了し生きる糧を与えてくれた何かを欲している自分に気づき、それを自分の信ずるものとして感謝を始めるところにあるのではないかと思う。きっとこういう議論はすでにあるものと思うが、こう思う。つまり、完熟した人間がなんのかはわからないが、いわゆる人間としての未熟さやスキがそうさせているのではないかと思うのだ。
そして一番は、ここに載っている複数の教団幹部の入信のきっかけを見ると「麻原の著書を読んだこと」とあるのだが「なぜその本に出会ったのか」が知りたいというところが本音である。言い換えれば、なぜ高学歴の人が入信したのかより、なぜその人がその本を読むきっかけを得たのか、どのようにしてその本に出会ったのかを知る方が地味だが、再発防止への簡単で近い方法ではないかと思う。
また、ある人は、裁判を行うにつれ、麻原への信仰心も薄まる者もいたが時すでに遅し。マインドコントロールの怖さと自己の未熟さを哀れむに尽きるのだろう。そして獄中、書き連ねた反省の言葉は、来世でのよき転生を望んでのことだろうか。はたまた、被害者や遺族へ向けた本当の言葉であろうか。本人にしかわからない。たとえその人が死んだ後だって、誰かの叫びは続く。ある人がなにかを思ったところで過去は変わらない。人間は反省する生き物ではあるが、その反省から得たものを次に活かすことはすべての人間ができることではない。
だれでも考えることは自由
こうやって自分も若い世代だけど、完全な知識ではないにせよ、むしろ初心者に近い知識にしろ、思うこと考えていることをここにひとつ記している。そしてみなきっとそれぞれ思うことがあるのではないかな。たとえそれを記して発信した時に、誰かが批判的に反応したとしても、同意してくれる人がいたとしても、それがさらなる議論の発展と自分の思考の深みにつながるのは確実で、また同時に自分で考えることの必要性を再確認するきっかけになるはずである。知識が足りないことなんて、批判的な人が頼んでないのに情報を教えてくれたり、そこからまた自分で調べていくことでどうにでもなる。筆者だって、記事を書く時に、もっと知識を揃えた上でこれ書いた方がいいのかなあなんて常に思っている。
自分が直接関わらなかったことでも、昔起こったこと、特に今も何かしらでその破片がどこかに存在し、誰かを傷つけたりまたそこから破片が飛び散ったり。何が起こるかわからない今を、何かが起こった過去を、なんでもいいからまずは自分なりに考えてみることは、未来に生まれる何かの破片を取り除く糧になるんじゃないかなと思う。
基準とアルファ
日本でもだいぶ馴染みがあるIKEA。
北欧はスウェーデンの大手家具屋さんである。
流れるように買い物をし、買ったアイテムは自ら組み立てるスタイルで、安さと手軽さを実現させた。
今日本ではイケアデートだとか、そういう「こういう部屋がいい」「こういうインテリアが欲しい」だとか、ああだこうだ言いながらツアーをするものが流行していなくもないらしい。
たしかに、お互いの価値観が分かるし、きっと室内の模様って大事だろうから、デートも盛り上がるのではないだろうか。
先ほど調べたら、イケア婚活というものはあったが、イケア婚活パーティはなかった。
イケア婚活とは、単純に「休日はイケアに行くのが好き」とか「家具が好き」とか「インテリアが好き」とかいう男女の婚活パーティである。
でもそれってただの婚活パーティ、、
だからこうしたらいいのに。
”相手を探しにイケイケ!
自分ならこうする 婚活IKEAツアー”
要するに、イケアで婚活パーティーとかしたら楽しいと思うのである。
基本的に、婚活パーティってローテして世間話とかたまに真剣な話とか会話して、最終的に相手にアタックして返事がどうなるかって感じだよね。
結婚したいなら、もちろん会話のムードが合うとか話が合うとかも大事だけど、「住む家」に対する価値観も見過ごせないところだと思う。恋愛と違うのは同じ家にするってことも挙げられる。入り口はIKEAのツアーで、そこから他の価値観に広げていく。楽しそうじゃない?
あと、単純に、婚活パーティでIKEAの話するよりも現地で歩いて回りながらIKEAの話したほうが断然面白いし、素を知れるのではないか。
こうしよう。
カップルにはいろんなタイプがいる。男が強いところ、女が強いところ。強いって言い方が合っているかわからないが、リードするとか、意思決定の所在と言いましょうか、、そういうのって、「はい、まず一分間話してくださーい」だとなかなか分からない。そこをもう取っ払っていこうっていうスタイルがこちら。
性別や物事関係なく、「こだわりがない人」と「こだわりたい人」に分けて、こだわりたい人がIKEAツアーのプランを考える。もちろん「こだわらない同士」もあり。そしたら、なんとなく基本的な意思の矢印は分かる。スタート地点である程度分けておくことで(IKEAっていう少し特殊な要素だが)そのあとの滑り出しも多少はアドバンテージになるのではないか。きっとお互いが熱を語って、「こだわらない人」は「うんうんそうだね」って話を聞き「こだわる人」は自分のプランを思いっきり語れる。
「IKEA好きが集まる普通のパーティ」じゃなく「IKEAでIKEA好きによるパーティ」ってところがみそで、これは前者のパーティにもあてはまるけど、IKEAっていうワードをあえて設定しそれを価値観の基準にすることで、お互い鮮明に価値観や人柄が認識されるのではないかと思う。でも共通の趣味を持った人たちが何もないところから「はい自由に始めてください」より、もうプランがあって、ある程度アシストされてる状態で行う婚活ってやりやすいし、わかりやすい。
普通のところで共通の趣味を持つ人が出会うのは今まであったことだけど、その場所でその時間を共有するのはなかなかないのではないか。
IKEAっていう実地を貸し切るのはある程度の権力が必要だけども、テレビとかだったらできるんじゃないか。テレビはテレビでしかできないことをやるのが仕事だと思うから、ぜひテレビ、IKEA婚活パーティ。やってください。
テレビじゃなくても、近くに会場を設置するんでもいいし。事前に組を作ってツアーさせて、帰ってきてまた話すみたいな。
と書いてて、別にIKEAじゃなくてもいいなとか思うし、別にやらなくてもいいなとも思うし、テレビじゃなくてもいいならテレビじゃなくてもいいわなとも思うし、でもやったら楽しいんじゃないかなとも思う。
運命の赤い糸のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや
p.s.自発的に考えてるわけではないんだが、最近日本の少子高齢化を解決するためにはどうしたらよいでしょうかなんて考えてる。なんかユニークなアイデアないかな。
インスタの続き、グーグルマップに軍配
めちゃくちゃ最初らへんの記事でこういうのを書きました。
インスタグラムからマップ機能が消えた日、多くのインスタグラマーは絶望しました。
自分の軌跡を振り返ることができないなんて、、、、
筆者だけかもしれないが、もちろんお店の情報としてシェアする時の材料ではあったが、たいてい、自己満足的に、位置情報はマップに蓄積させるためにやっていた。
インスタグラムは未だにこの機能を復活させようとはしません。むしろ「これ必要なの?」という機能ばかり生み出していきます。「クリエイティブなのはいいけど、実用性も考えてよね、、、」と思ったけど、この願望はあくまでも個人的なものであり、すでに「必要性がない」という結論をインスタグラムは出しているから、きっと調査もある程度はしてあるんだとは思う。そう思いたい。
そんなこんなで、もうグーグルマップに移行しました。
東京でも使っておけばと思ったが、そういえばあの頃はマップ機能があったのだった
今では永遠に続けることができるグーグルマップの保存の機能を使っています。もう、星が増えていくのが楽しい楽しい、ワイファイをゲットするなり、保存をするべくマップを開きます。
結論:
インスタグラムのマップ機能はもういいかな。
万人なのか、一部なのか
果たしていいものとは
今回はまず「いいものとは万人受けするものなのか、一部の人に受けるものなのか」という議題。
要するに、「いいもの」の定義みたいなものかもしれない。
簡単な例を出すと、ある味が好きな人にとっては気にいっている味も、違う方面の味が大好きな人にとっては、美味しくないと感じるということ。
もしそれがその人の傑作だとしてもそれがニーズや志向と必ずしも一致しない。
何かを作るにあたって、まず考えなければならないのが「どこをターゲットにするか」であろう。
例えばアプリ開発の場合、一般的に色々な人が使う用途のものは多くの人に受けるようなデザインだったり、コンテンツが必要になる。しかし、一部の特殊なニーズに応えるような、いわば専門性の高いものだったり、限られた領域だがその範囲でのニーズはあるものだったり、万人受けしなくても大丈夫なものもある。このように、誰を、なんのために、を考えるのは基本中の基本であろう。というかもはやそれを作るきっかけのようなものだろう。その動機がなければ、サービスは生まれない。
今後何かを作ったり考えたりするときには、ここは初歩的なステップとなるでしょうな。すごい簡単だけど。でも一番大事。
では、万人に受けるものを作れるに越したことはないのだろうか。
そうではないと思う。
そのターゲットに向けてきちんとしたものが作れて、そのターゲットがそれを気に入り、その領域に浸透していくように広げていくことができれば、そのニーズに応えることができれば、十分なんではないか。
ただ、万人に受けるものを作ったほうがそのターゲットの母数が多いというだけの話なのではないか。ただ受け取れる恩恵も大きくなるけれど。また、万人に受けるものにおいては、ライバルが多いこともあるかもしれない。より小さい領域のほうが、それは当然ながらそれに取り組む数自体が少ないことはあるだろう。
だからこそ、特殊な技術が必要だったり専門性のある産業や、特定の領域の人向けのアプリなどにおいては、その企業やサービスの開発者の一強となることが多いのかもしれない。
こんなことがあったよ
話は飛んで、いまから3ヶ月くらい前の話になるだろうか。自身の経験から得られたひとつの考えがある。
筆者は6ヶ月アメリカでホームステイをしていた。
その家では特に不便なく暮らせていたのだが、次のタームから寮に移ろうかな?と非常にカジュアルに伝えた後の、ある日にホストファザー(ホームステイ初期に離婚、筆者とふたり暮らし)が筆者にこう訊いた。
F: "Why do you wanna move to a dorm? Dorms are MUCH expensive than here."
"I don't think so"
F: "Okay, so explain how different."
"Maybe it costs about less than $800."(めんどくさいなあ。そんな気になる?)
(略)
F: "Who pays your fee?"
"Actually my parents."
F: "Why don't you work? You should earn money for your fee."
F: "How's your internship going?"
"I got it actually. It's unpaid though."
筆者はこう答える。(この件に関しては、自分の情報収集不足で本来はインターンシップなら有給で働けるということをつい直前に知った時点だった。)
"You're right, so I can't win this game because I have thought I must not work here due to visa. So I haven't worked here. "
そして、この話題は「そうか」ということになったのだが、彼はさらに自慢げに一語一語ゆっくりとこう加えた。
"I, give, my daughter, only $300. $300. She works you know everyday."
「うちの娘は自分でパートタイムをしているから、自分は3万円ほどしか仕送りをしていないぞ、3万だぞ?」
もう、ほんと、すっごい知らんそんなの。事情があるやん。それはあなたの家の話で、それとうちの家を比べないでくれ。自分でパートタイムをして自分の学費も稼ぐことはとても素晴らしいと思うよ。だけど、そうじゃない部分で得られうることもあるし、何をどうするかは、その内訳を他人にどうこう言われる筋合いがない。ましてやお金のやり取りをして少なくともうちの支払いが収入の一部となっているような関係の人に言われる理由はない。
まだつづく。もう書くのもめんどくさくなってきたけど、
"Who pays your Japnese tuition?"
"My parents"
もう、この答え何回目?
何度でも何度でも答えてやるよ。でもここらへんかもう少し前から、いい加減にしない?って思ってiPhoneで録音開始した。
※聞きたい人いたら言ってね。オフの時のわしの拙い英語付き。
F: "Where did you live in Japan?"
"I lived in Tokyo by myself."
F: "You paid for house and everything about you?"
"No, I paid everything but my room."
F:"It's not yourself."
「それはliving by myselfとは言えない」
そして、
「おまえはお金のこと大事さを全然わかってない」
非常に正論である。未熟な英語での表現の仕方もあったかもしれないけど実際、たしかにby myselfではないなとは思った。彼は経済的な自立に軸を置いているようだった。
筆者のまわりには正論を言う人で溢れている。そしてそう指摘されていることなど、そんなことすでに存じ上げている。だからこそ、あなたに言われなくても、、というのは思う。と、同時に自分は本当にお金の大切さをわかってないのかもしれないなとも思う。
この出来事以外にも日常的に、彼は料理と仕事以外は、リビンのソファーで犬と映画を観てるか寝ているかのどちらかだ。話しかけても、映画をいちいち止めて、耳を傾けるものの、帰ってくる反応は渋い。
「あなたのOKAYをいただくために話しかけてるんじゃないんだよなあ」
とは毎回思ったものだ。話しかける気にもならないのが正直なところ。そんなこんなで最低限のコミュニケーションでやり過ごすような日々は結構続いた。というかそれが基本だった。
寮に移りたいことを伝えてからの食事は本当に酷かったと、冷静に分析しても思う。
明らかに質は変わった。作っていないこともあったし、パスタの日でない限りはほとんど炭水化物なしのディナーだった。少し太ってきてたし痩せれたからよしではあるが。そのころはもう、なるべく家には寝るだけ。夜ご飯はなるべく友達と食べるか、自分で済ませるか、ランチが遅めだったなら、なしの日もあった。
ちなみにお世話になったエネルギーバーはこれ、LÄRABARである。ララバー。
アップルパイ味とレモン味が好きだった。6種類の原材料しか入っておらず、ナチュラルにこだわるエナジーバーである。その期間、近くのスーパーで10本5ドルというセールをしていたので買っていた。朝ごはんもそれで済むしね。よかった。
それからの日はほんとうに家に帰りたくなかった(笑)何が一番彼にダメージを喰らわせることができるのかを考えると、犬を殺すことだった。って思うだけ思って、人に言ってひとつの話のネタにするくらいだったから安心して、、、
もはやそれでよかった。へたに歯向かって不利益を被るよりも、そうやってやり過ごすほうが賢明だったと思う。
ただ、ファザーが出勤している平日の自分で作るランチは幸せだった。一人暮らしが向いているんだと思う。
最後には、部屋を着た時よりも綺麗に。土足可の床を雑巾で拭いた。「このやろう本当の綺麗を教えてやる」と思いながら拭いた。でも掃除は下手なので結局普通だったけど。
どう思う?
よく、ホームステイをするときに「当たり外れあるからね、、」と言うことがある。
ホームステイを経験したことがある人ならわかると思うが、なぜお金を払っているのに、選べないんだ?という疑問。
いわゆるホームステイ運ゲー問題である。
「今日の夜ご飯何食べようかな」のワクワクがない
なんだかんだ要求しにくい環境
ホストはなんでも言ってと言うけれど
なんだかんだ相手は人間で、共同生活をしている相手
何かアクションを起こすより我慢したほうが楽
家族構成やペットの有無はよっぽどのことがない限り選べない
美味しいご飯の家とそうでない家がある
ルールが多い
なんといっても割に高い
まてまて、と
これってホームステイだからしょうがないで済ませていいの
改善の余地ありまくりでしょ
だって仲介会社にマージンを取られホストの収入の一部にさえなるのだぞ
もはや人権侵害なのではないのだろうか
まあ、そう思う人はホームステイしなきゃいいんだけどね。
きっとそうなんだろうけど、それでも経験としてしたい人もいる。
そのとき運ゲーで済ませるか、さらにいい関係のまま続けたいかはその人次第だ。
そしてすこしかんがえた
ホームステイのマッチングアプリを作ろうと。作ると言っても自分じゃコーディングもできないし、プランニングだったり全てど素人。みんなはじめはど素人だから、いろんな人に助けてもらえたらいいなあとか、一緒に手伝ってくれる人いないかなあとか思う。もしここまで読んでいて、なんとなく面白そうだと思ったらそれが成功するかはわからないけど、トライをする価値はある。ちなみに作るにあたっていろんな課題があって、その都度クリアしていかなければならないのだが、そのプロセスって、結果どうこうよりも価値のあるものだと思うから。
やってみるに越したことはない。プロじゃないし。
それが素人の強み。ただ、だれかの協力が必要ってだけ。
なにをやりたいか
だんだんWantedlyの求人募集ページみたいになってきているが、すこしだけ説明してみたいと思う。誰が見てるんか知らないけど。
つまりはそう「こだわりたい人のためのホームステイマッチング」アプリである。
ちなみにアプリは作れない。自分の技量は置いておいてこれから理想を語る。
コンセプト
今まで書いてきたように、お互いが気持ちよく生活できるような、我慢する必要がないような「相互に利益のあるホームステイ」を目指したい。その手助けをしたい。
システム
簡単にシステムを言えば、イメージ的には留学版交換Airbnbのようなもの。留学先の国とペアの条件の一致に基づくフレキシブルなマッチングである。具体的には、アプリのユーザーAは、滞在予定先にいてかつユーザーAの母国に留学をしたいユーザーBの家にホームステイをすることとなる。つまり、AとBがお互いの家族間で交換されることとなる。また、もしゲストが現地でのエクスペリエンスを希望するならばホストである家庭がそのサポートをする。それも細かくアクティビティごとに値段を設定する。
もし、同じ家で共同生活をするよりも一人暮らしまたは寮に住むことを希望する場合、契約内容に基づき、その手配もホストである家庭がする。
メソッド
方法としてはアプリを作る。そのアプリ上でフレキシブルに契約内容を選択できるよう、ホストとゲストそれぞれがこだわりに基づいた条件を設定し、それに合ったペアでマッチングが成立する。また、その契約内容に準じて金額も決定される。より近い条件同士の方が払う費用は少なくなる。上下が発生すればその分だけをペアに支払う。または減額される。
例) ご飯は夜だけでよい、食費抜き
手順
- ユーザー登録
- ID認証(2種類)
- 留学先登録
- 受け入れ環境の申請(しっかり写真付き)
- ユーザーステータスの設定(open or not)
- さがす
最後雑だけど、
メリット
- 同じようなニーズのペアを得ることで、留学費用の大幅削減が見込める(交換留学の際の学費の交換の滞在費バージョンと考えたら分かりやすい)
- 自分の子供がホームステイをしている家庭の子供のホストになるため、相互に一定の安全性は働くと考えられる。
- 自分のニーズにあった家庭を選べる(家族構成、きれいさなど)
- 自分のニーズを最大限現実化できうる(限度あり)
課題
- 私費留学などの人はエージェントを介しているケースが多くなかなかその選択肢はない。
→交渉とパートナーシップで解消
- 為替がほぼ同じような国同士の方が楽である。所得の低い国と高い国との交換だと前者の負担が大きいため、なかなか参加しにくい?
- 一人暮らしを希望する際、日本の法律下では外国人留学生本人が賃貸契約を結ぶことは禁じられているかもしれない(要確認)。その場合は日本人のホストが代わりに契約?責任取りたくないなあ。その場合の対応を考えるべき。
- 安全面の確保。お互いの家庭の子供を交換するのだけれど、それなりの安全面の確保は必要。
- タイミングが合わないかもしれない。
- 学校や既存エージェントの兼ね合い。あわよくば提携。
んん、今のところはこのくらいかな。
最近考えれてなかったけど、まだまだじぇーーーんじぇん詰める必要ありだけど、もし、もし面白そうって思う人がいるなら連絡下さい。お願いします。でもたぶんいないよね、、、笑 ここまで読んだことがすごい。
すごくやってること欲張りなことだろうし、ちっぽけだけど、実現したらだいぶなんか楽になるんじゃないかな、ハードルも低くなるんじゃないかな。と思うのであった。
ご精読ありがとうございました。ここまで読んだ人いるのかな。
ジーザス
話変わるけど、この写真いいよね。アイスフラワー的なもの (Sabrina (@similarcolors) • Instagram photos and videos)
例えばこの作品が万人に受けるものなのか少数に受けるものなのか。
アートはロックだ。いいな、アート。
ぢりき
目的と目標
なにかをやるときに、目的と目標を持つことは大切だ。
でも、その「なにか」が他の目的のために蔑ろにされることは少しもったいない。
本来の目的のためのサイドとしての「なにか」よりも、その「なにか」すらもメインにできたらそんなこと、できるに越したことはない。誰でもわかる。
ただ、大事なのはそれらが同時に起こることなのか順を追って起こることなのか、だと思う。
もし、同時に起こらないならそれは運が良い。なぜなら、それらをコンスタントに遂行できるからである。
逆に同時に起こる時はどうしよう。やるしかない?
なあなあになるくらいならやらないほうがいいのかもしれないし、それをやったとして、なにか少しだけ収穫があるかもしれない。
ただ、なにかをやるというのは時間を費やすということなのだからそれなりの時間意識を持って取り組まねばならない。時間を無駄にする人と、時間を有効に使う人、この差は大きいと思われる。自分自身後者を心がけてはいるがこれはなかなか簡単ってわけではない。
いかに充実させるか。学校やアルバイトもあるかもしれないがそれは考慮に入れないほうがいい。一日の大部分を占める本分たちはいいわけにされがちであるからだ。
ああ、なんか悪魔みたい。回避できないものや義務的なものは、正当な理由のように見えるけれど、実際はそうではない。というより、筆者はそう思わない。特に最近は。
「学校がある」「宿題に時間を取られてしまう」このような類の発言は簡単だ。
ついこないだまでそうだった。しかしこれも実はいま心に余裕があるからこその考えかもしれない。
でも、だ。でも、このマインドを保つことができたら、自分自身を奮いたたせポジティブに物事に取り組めることができるのではないか。そうだとしたら、これが一過性のものだとしてもそれを継続させることができるようなリズムやポリシーをしっかりこれから身にまとえばいいのではないか。
という、自戒でしかない内容だが、本当に、もっと自分のことに向き合っていかないとダメだなと思う。エネルギッシュに目標達成と目的遂行に努める、これでたいていは成長できそうな気がする。
ということで、今を考えるというのは未来を考えることでもあるとも言える?ので自分の将来について考えてみた。
たぶん、言える。なぜなら、「今なにがしたいか」は「この先どうなりたいか」に直結するような年齢になり始めているからである。先を考えていて、すごいじゃんと思う人もいるかもしれないが、そんなことはない。今まで考えなさすぎた。というか、考えていたつもりだった。が、あまかったと言った方が正しいかもしれない。とにかく、もう、ラストチャンスなのだ。
そんでもってどうなのよ
それで最近考えた選択肢をここに並べてみる。
最近、気になっていること。オカルトチックかもしれないが、単純におもしろい(interesting)という感覚で、「日ユ同祖論」というものを考えたりもした。これはいろいろ都市伝説とか調べてる中で出てきたワードで、それまでは考えたこともなかった。言い換えると、日本の祖先は遠くても、朝鮮半島、中国などアジアでも東アジアの範囲から来た渡来人なのではないかなくらいにしか思っていなかった。しかし、注意深く、慎重に例えばYooutubeで研究者の映像を見たり、その説を自分なりに検証(そんなに深くできてはいないけど)してみると、そんな気もしてくる。これこそが都市伝説のその曖昧な微妙なライン「嘘か本当かわからない」というものだからと言われればそれまでだし、その程度のものだとわかっているが、しかしながらおもしろい。
そのおもしろさの本質は、おそらく、「学校じゃ習わないこと」だからであろう。学校の常識は世界の本当の常識ではない。教育は国家の思惑がすごく反映されているからである。今まで考えなかったことを大人になって知る喜びというか、子供に戻るというか。とか言ってると、笑われるけど、こうしていつまでもフラットに好奇心擽られ続けていたい。しかしテスト期間にハマってしまうのだけは止められたいところ。
この最近気になっていることの将来性を考える。するとおそらく、なしではないという答えになる。可能性的には、旧約聖書から始まり、古代イスラエルの歴史、ユダヤ、キリストを知り、世界の宗教を知り、様々な派生やジレンマ、そして最終的にはいわゆる日本のカルト宗教と言われる新興宗教だったり「なぜ人はそれを信じるのか」がテーマになってくるんだろうと思う。
これで食っていけるのか、という問いには、正直そんなものわからない。宗教学者はレアなケースなだけでそんな質問なんか、下手に冒険をしていないサラリーマン以外なら当てはまる。
このケースは大学院?笑ってしまうね。
二つ目はサラリーマンである。業界は広告、デザイン、マスコミ、出版である。いわゆるクリエイティブと言われる業界である。しかし、この業界にはクリエイティブな人と、単純にタフな人とで分かれていると推測する。違っていたら訂正が欲しい。この業界は基本的に激務だ。激務といえど、個人差があるのだが、その激しさ故にタフでバイタリティのある体育会系の人間も求められるのである。そして、デザイナーなどのクリエイティブな人間たちもある程度のタフさが必要とされるのは言わずもがなであるのだが、個人的には体育会系のとしてクリエイティブではない人としては入りたくない、こう思うのである。きれいごとである。しかし、そんなのはいい。自分がそう思い自分の人生を歩く。(親の恩恵を受けながら...)妥協はなるべくしないほうがきもちがいいじゃん。自分の人生に関しては。他人の妥協はなんでもいい。
実際個人デザイナー事務所やその類の集団は例外である。前述したのは広告代理店と呼ばれる企業だ。
今までは自分は作り手ではなくディレクションをする側なのだと、こう思ってきた。そうなのかもしれないが、もう一度考えてみたい。最近思うのは、今自分に向いていること、自分ができそうなことをやるのもいいかもしれないが、「こうなりたい」「自分もできるようになりたい」と幅を広げるのもまた一つなのではないかということ。当然今のままではなんにも強くないのはわかっている。今のまま、デザインがやりたいですと言ったところで、私大文系のただの留年生である。美大生には勝てないし、そういった事務所も美大生がいたら美大生を採る。
では、1からそこで学びたいというのは不可能なのか?
こう思うのである。しかしそんなのを受け入れるのは実際無給でも迷惑なくらいだろう。
じゃあどうしよう。
美大生じゃないなりの「なにか」を身につけていたらどうだろう。
それは、「オールマイティさ」ではないかと思う。
美大生たちは当然デザインに強い。形にすることのプロ集団である。
そしたら、企画から手先の作業まで、ある程度1人でできてしまう人になるのはどうだろうか。きっとセンスが伴っていれば大変だけれど、楽しい人生が待っているのではないか。こう思うのである。
しかし時間の問題が立ちはだかる。
いっそのこと美大とか入ってればよかったんじゃないかとか思ったりもするけど、同時に自分ではどうやってもあの綺麗な世界観のあるインスタグラムにはならないなと、限界を感じるのであった。だが、それは何もしていない状態だから当然のことでもある。だから学ぶ意味があるし、磨く意味がある。今からでも遅くないのであれば、学びたいという気持ちも少しある。
ということで、三つ目は美大生である。(可能性低すぎ)
①おとなしく今のまま就職?
②地道に個人的にデザイナー事務所にアタック?
③研究者の道、学者?(笑)(笑)
④美大生
(数字に優先順位はありません)
いまなにやろう
そしてそして卒業制作を考えてみた。
50音に即して架空のブランドを設定し、その商品やサービスのブランディングを企画の段階から自分で1人でやるというもの。
その名も「(仮)歌留多的創作論」椎名林檎ばりの。
もし、万が一、時間があれば、アルファベットでの英語のものも作りたい。
つまり、50+26=76個アイデアを出しそれを形にしなければならないということである。きつい。けど楽しそう。調べた限り誰もやったことなさそう。
誰かやったことある人いたら教えてください。
だいぶボリュームはあるものの、、とはいっても、商品名、ロゴなどくらいになるだろうか。そしてデザイナーのサイトの「works」のような色合いの出るページすら作れたら素晴らしい創作になりそう。
例えばこれとか、こういう風にサイトを開いて一覧を作れたら粋だなと思うわけ。それが同時に自分のポートフォリオともなるし、自分のためにも、やる必要のあることだと思う。
それで、もっと欲を言えば、ZINEも同時に作って、アイデアノートや、その架空の会社の持つ問題だったり課題の設定を書いて、おさらいをする媒体も作れたらすごく満足。が、非常に時間がかかる。
たぶん、それぞれのブランドがストーリーあるだろうし。全体的に子供のおふざけのようなものだから絶対楽しいと思う。
この作業を通して自分のぢりきを形にしたい。自力でも地力でも血力でも、自分の精一杯のパワーを注ぎたい。
P.S. それで、
やっぱ日本語の先生はぜんぜんちがった。
ああ、発言には責任持とう、。、、、