理想と現実、貫徹と妥協
考えてみる
ここに2つの文がある。
・「〜するべきだ」けど「〜しない」
・「〜するべきだ」から「〜する」
これは両方同じ理屈だ。
どういうことかというと、例えばこう。
・ゴミは分別するべきだが、出来てない
・ゴミは持ち帰るべきだが、ポイ捨てしてしまう
これらは、、、
・ゴミを分別するべきだから、する。
・ゴミは持ち帰るべきだから、ポイ捨てはしない。
これと全く同じだ。
結果はどうでも、するべきなことをしてもしなくても、すべきでないことをしてもしなくてもその思考回路は同じ。
人間という生き物
多くの「〜するべきでないことをしてしまう」とか「〜するべきことをしない」とかは、完全に人間の甘さで、
・ポイ捨てしてはいけないけどする
・喫煙所ではないけどタバコを吸う
・トイレではないけど用を足す
・下り階段だけど人がいないから上る
・電車で目の前に高齢者が来たけど眠ったふりをして知らぬふり
・プラスチックやビニール袋を多用する
※9割汚い
こういうのって原因は「やってしまっている自分」にはなくて「やってしまうのを許す自分」にあるのではないか。
だって、みんなわかってるんだもん。
「そうしたほうがよいこと」と「そうしないほうがよいこと」の区別を。
よくないことなのはわかっている
わかっているのに、やってしまう。
そこが問題なのだ。
そこにはきっと、
・みんなやってる
・自分1人くらい
・めんどくさい
・そうしたほうが楽
・急いでる
とか、心が落ち着いていない状態で起こることが多い。
つまり、
心が豊かで満たされている時にポイ捨てをするか?
急いでいない時に下り用の階段を駆け上るか?
美術館で紙くずをポイ捨てするか?
幸せいっぱいの時に、「わざわざやらないほうがいいこと」をするか?
そんなの謎のストイックくらいでしょう。(幸せな自分、罪深い、、、!みたいな)
こういうことだと思う。
たぶん、しないでしょう。
じゃあどうするか
でもたしかに、逆の状況では気持ちは分からなくもない。
みーんな、それが「やらないほうがいいこと」なんてのは分かってる。
じゃあどうするか?
どうすればその理想を忘れずに自分を注意していけるか、だ。
どうやってその理想を自分の中でキープする努力すら必要がないほどに心を満たすことができるか、だ。
それはきっと「その先に何が起こるか」を知ることが必要だと思う。
必要性がないのに自分の「めんどくさい」を抑えられないばかりにゴミを分別しない結果どうなるか。
喫煙所以外でタバコを吸うことで、本来きれいな空気を吸うことができたはずの人がどう感じるか。
たったガム1品買うのにビニール袋を断らないことで、その積み重ねがどういう結果を生むか。
この、先を考える力(ってほどでもない)は、少なくともいろんな人と生きていく中で必要で、いいことを呼び込んだり、悪いことを防いだりもすることができる。
もし何か「するべきではないこと」を知らずにやってしまっていたら、そこで気付けばよい。だから気づくこと、疑うことは大事なのだ。
「いつもこうしてるけど、これって何でだろう」
こうやって向き合うと物の見方が変わってくるはず。そうすると新しい視点が生まれて人生楽しくなっていく。同時に色々なことを予想でき、選択肢が増えて、色々なケースに動じることが少なくなる。
それ以前に、逆に考えることもせず「いつもそうしている」とか「そういうものだと思っている」とかは論外だけど。
自分の周りのことに対して何も感じない、疑いを持たないというのは考えることを忘れて、脳が麻痺しているからではないだろうか。
それで言えば、たとえば、いつも食べているものだってそう。
添加物パラダイスの食べ物を「子供のときから食べてるから」とか「おいしいから」とか。
もう、考えることを止めている自分にすら気づいていない。侵されている。
それがいいことかどうかとかはどうでもよくて、自分に確たる理由があればいいんだけど、そうじゃない要素、時間的なつながりとか周囲の状況で物事を容易に判断することが問題だと思う。
大切なのは自分の思考回路を自分で把握することだ!
それが自分をぶらさない術であり指標である。
こういうことを言うと過激とか考えすぎだとか言われるのだが、過激でしょうか?
おわり